形而下の文化史

表象文化史・ジュエリー文化史・装飾文化史

 

原山支石墓群

(1)原山支石墓群;Beyond bridge

 

長崎県 長崎県文化財

原山支石墓群
史跡(国指定) 
よみがな はらやましせきぼぐん
指定年月日 1972年11月06日
所在地 南島原市北有馬町大字坂上下名字新田ほか
管理・保護団体 南島原市

 島原半島の南西部,雲仙岳に連なる標高250mほどのなだらかな高燥地にある。縄文晩期終末の墓地で,もと3群あったが2群60基余が現存する。石棺,甕棺(かめかん),穴を掘っただけの土壙墓(どこうぼ)などの下部構造のまわりに支石を置き,巨石で覆う構造をもつ。巨石と支石からなる上部構造からして碁盤形支石墓とよばれ,朝鮮半島のものに酷似するところから南鮮式支石墓とも呼ばれる。石棺墓の場合,極端に短くて深いものが多く,被葬者はそんきょの姿勢で埋葬されたと考えられる。甕棺は刻目突帯(きざみめとつたい)をめぐらせた縄文晩期土器の特徴をもつ。浅鉢や壺形土器を副葬する遺構もあるが,副葬品はきわめて少ない。また,土器に籾(もみ)の押し形のついたものがあるなど,わが国への稲作技術伝来と原山支石墓群は深くかかわっていたと考えられる。

以上長崎県庁ホームページ

 

縄文時代末期に小グループの渡来民が上陸して、この支石墓を築いたようです。以前から書いているように、日本と朝鮮半島といった近視眼的な見方はそろそろ止めた方がいいと思います。日本、朝鮮半島などに稲作、支石墓の文化を持つ様々な部族が同時に海路で渡来したと考える方が自然です。その後、交流しながら文化を独自に発展させたと思います。朝鮮半島では北方大陸部族との戦いで徐々に渡来民の文化を衰退させていくのですが、日本では弥生時代古墳時代と部族同士の勢力争いをしながら、日本列島の支配者層になっていきます。支石墓、須恵器、加耶文化、稲作、冶金などを精査していきましょう。この時より数千年早く、ブルガリア東南部では、土壙墓、石棺墓、支石墓が行われ、金の採掘と冶金などの文化が栄えていたのです。須恵器に似た土器もバルカン半島では、ブルガリア東南部の支石墓以前から作られ、副葬されていました。一つの文化は、古来、世界規模で伝播しています。アフリカを出た人類が地球の隅々まで行渡ったのはさらに遥か以前です。

 

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