形而下の文化史

表象文化史・ジュエリー文化史・装飾文化史

 

レポート;目黒 空中庭園の古墳とMegalithic

 

 

 

目黒の空中庭園に行った。青空の中、浮き立つように「土佐水木」が咲き誇っていた。高知県の限られた場所にだけ自生している珍しい植物だそうだ。珍しい品種の「桜」もかわいい。お花好きには嬉しい庭園です。

 

 

高揚して坂を上っていくと、いきなり小さな古墳が4基現れた。え! 何故ここに?

調べたら、この地には「池尻古墳群」があったそうだ。郷土の記憶を留める試みなのかと想い、目黒区役所の担当職員のことを思った。

何気なく右端の奥まったところに目をやると、見慣れたものを見つけた。この時は素直に納得した。しかし、これまで残したのか!(3分の1位のレプリカだと思う・写真)

古墳の石室には、頭のところに「須恵器」と「壺」が副葬されていたとの事。北アフリカからブルガリアにやって来た「Vinca culture」の部族の埋葬方法です。だとしたら行動を共にしていた「コーカサスの部族」の「納骨塔」があっても当然です。

PetroさんのX投稿記事の気になっていた「加工された石」を拡大してみた。同じものでした。奥に円形の土台、右に「四辺形のNitch」がカットされた頭頂部、左に頭頂部を支え穴を作る湾曲したブロックが見えてます。組み合わせると、同じ形になります。

 

PetroさんX投稿記事 ;大土山 天の磐座神宮 磐座そばの加工石材

PetroさんX投稿記事 ;大土山 天の磐座

 

ブルガリア北部の「Varna 」では石灰岩の輪切りを積み重ねていました(写真・3)。「cernavoda culture」の部族に追われ、南部に移ると、石質が変わり、大変な作業になります(写真・1)。そこで考え出されたのは、ブロックを積んで作る「Nichi」です(写真8)写真。日本に現れた「納骨塔」は、ブロックを挟むことで、形を最初と同じようにしたものでした。

鳥葬の磐座もリアルに出来ています。大きな岩の中ほどをカットして凹みを作ります。

少し傾斜をつけて置き、水分を流します。写真のレプリカは水が溜まっています。日本でもブルガリアでも、下に排水の溝が彫られたはずです。

ブログはまだ執筆の最中です。予定より早く、目の前に現れてしまいました。

 

(3)Jauney of a Nomadic Family ;ブログ Megalithic 石造構造物(3)

 

 

(1)Hlyyabovo ;HUNE BED ;ブログ Megalithic 石造構造物(4)

 

(8)Perperikon ;wiikipedia ;ブログ Megalithic 石造構造物(4)

何故 見落としていたのだろう。左上に納骨の四角い穴が有ります。これで,この後の複合埋葬施設の形に繋がります。

巨石で囲った中に石のブロックで空間を作り、前面に「台形のNitch」そして上部に四角の開口部があります。「台形のNitch」でこの石の空間が、天の王女の子宮内、つまり現生と違うもう一つの宇宙であることを示し、「四角の開口部」でこの空間が「雨による平衡と豊穣の女神と冥界の女神が習合した女神」イシュタルの冥界であることを表象しています。

Megalithic・巨石構造物(4)の写真(9~11)、崖に「台形のNitch」を刻み、頂上に鳥葬用の「Stone-Sharapanas」と「共同納骨墓」がある複合埋葬施設の原型です。勿論「Perperikon」では「Stone-Sharapanas」は写真(7)で同じ施設にあります。つまり「Perperikon」が最初に作られた複合埋葬施設で、Megalithic・巨石構造物(4)の写真(9~11)がその完成形であったと考えられます。そして頂上に作られた「共同納骨墓」は「山形県 宝珠立石山 共同納骨ドルメン」や目黒の空中庭園にあるような形であろうと考えられます。

 


空中庭園、唐突に「大鷹飛来」の立て看板があった。匂わせすぎでしょう。武蔵野の猛禽類は「大鷹」と「フクロウ」だと思います。「大鳥神社」、「大鷲神社」、「フクロウ神社」因縁がありそうだ。

なおこのタイプの納骨塔が有るのは、人口の多い集落が考えられます。小さな集落では、ベッド状の磐痤と大きめの板石、あるいはカットして平面にした石を二つ立て掛けて作った洞穴状の三角Nitchが納骨の場所になります。この二つが揃っている場所は、鳥葬が行われていたと考えられます。三角は冥界の女神イシュタルの表象です。

 

この複合施設が解り易く観察できるのが愛媛県の立石山山頂です。円形の大きな磐座は中ほどがえぐられで低くなり、下部に溝を掘って雨や水分を流せるようになっています。

 

立石山山頂磐座・複合遺跡(ドルメンも含む)(参照)

 

ドルメン(共同納骨墓)

 

磐座左には「打欠きのあるMenhir」(参照)があるように見えます。この地に渡来した部族構成が多様であったことが分かります。勿論ふもとのMenhirと同じ概念を表します。鳥葬の場所で「子孫繫栄.多産」を願う。古代人の死生観が伺えます。

 

(4)Buzovgrad Menhir;TRAVELBULGARIAN News

 

 

山形県 宝珠立石山 共同納骨ドルメン;Koji-Kin s

eesaa.net

ブルガリアの石棺型Dolmenは、天の王女の子宮表象であるアーチ型の開口部を持つものが有ります。しかしこのDolmenは、コーカサスの部族が信奉するイシュタルの表象[輝く雨]の正四辺形開口部を持っています。アーチ型はそこから遺体を運び込めない大きさのものがあり、表象の意味が強いことが解ります。一方コーカサスの部族が石棺型Dolmenに開口部を造るのは、この穴から遺骨を納める実用的な目的です。もちろん表象も大事で、イシュタルの表象の形になります。この後に続く、コーカサス山脈西端のMaykop cultureでは、雨の○、輝く雨の⊡、女神の△が使用されています。以上の表象からの考察により、このDolmenはアフリカ出身のVinca culture部族のDolmenを借用して、コーカサス出身の部族が共同納骨墓として築いたものと考えます。近くに鳥葬のための磐痤があったはずです。上空から良く見える、山の上の岩場があるはずです。

 

Megalithic 巨石構造物(6)墓としてのDolmenの拡散(2)

 

 

Varna necropolis 人骨のゲノム解析

 

(1)紀元前4,500年頃の、世界最古の金の宝飾品を含む、エリート男性の埋葬地の復元。Wikipedia

Genetics

The elite male from Grave 43(c.4495BC)belongedto the paternal(Y-DNA)haplogroupT-M184 and the maternal(mtDNA)haplogroupU2.

Other male samples from the Varna necropolis belonged to the Y-DNA haplogroups I2a1, I2a2, G2a, T1a, E1b1b and R1b-V88

wikipedia

 

「Varna necropolis」人骨のゲノム解析によると、地中海と北(北東)アフリカ海洋民のゲノムが大勢を占めていることが解かりました。詳しく個別のDNA haplogroupを見ていきます。これまで調べたコーカサス部族の歴史や文化、さらには「共同納骨墓」(参照)を考慮に入れるとその全体像が理解出来るはずです。このことは、「墓としてのDolmenの拡散」を理解するうえの出発点になります。    

先ずは二つのHapurogroupから見ていきます。なぜなら、黄金に囲まれて見付かった人骨には「kOTEKA(インドネシア語・ペニスケースのこと)」が副葬されていたからです。アフリカでペニスケース装着の風習が認められるのはSudanの一部族のみであること、Varna culture以前のバルカン半島で特筆されるのは「Menhir & Stone-circle」の文化であることです。「Horn of Africa」には原始的な男根のMenhirから、北方ステップ地帯にある「Kurgan stela(人面立石)」まで見つかります。北方ステップ地帯までもの、人と文化の交流が認められます。

またこれらはmtDNA Mの東への拡散を証明することになります。後で詳しく触れましょう。

 

(2)Hapurogroup T-M184; wikipedia

 

(2)Hapurogroup E1b1b; wikipedia

(3)Horn of Africa; Reseachgate; wikipedia

 

 

Varna necropolis人骨のゲノムが分かったことにより、これまで様々な方法で試みてきた東ブルガリアのBC7,000年以後の歴史が、スッキリとまとまりました。この地域の歴史を創った部族の注目点は、[Horn of Africa]に有りました。Varna necropolisで黄金に囲まれて眠る人物のルーツです。T-M184とE1b1bのゲノムから検証していきましょう。

写真(2)(3)を見れば一目瞭然です。DjiboutiとSomaliaにはHapurogroup T-M184が多く、E1b1bはEritreaとEthiopia、DjiboutiとSomalia全てに色濃く分布します。Ethiopiaでは約58%の人がHapurogroupE1b1bを持っており、E1b1bの分岐はこの地域で起こったと考えられています。Hapurogroupの拡散に関しては、少し違った様子が見られます。

そもそもHorn of Afuricは数百の部族が争ったり、緩やかな協調したりして暮らす領域です。T-M184は紅海やインド洋に面した海岸地帯の部族が多く、E1b1bは内陸のEthiopiaなどに多い集団です。E1b1bは内陸を中心に北上しています。当時まだ湿潤だった北アフリカ一帯に拡がっています。「Tassili-n-Ajjer」の岩絵やズールーの概念を発展させたのも彼らだと思います。もちろん海洋民の部族もいますから、北アフリカ、地中海での交易にも参加しています。だからベルベル人(Berber people)の多くがE1b1b、同下部ハプログループを持っています。

ただし最初にバルカン半島にStonecircle &Menhir を築いたE1b1bグループはHorn of Afuricから北上した部族です。ベルベル人は遅れてズールーの概念を発展させた後、北上します。

一方T-M184は本格的な海洋民に多いHapurogroupです。インド洋を航海したり、ペルシャ湾に入り、Tigris-Euphrates riverを遡り西アジアに到達しています。紅海を北上してナイル川から地中海に入っています。黒海大洪水の後には黒海に入り、DnieperやDonets riverまで遡上しています。Dnube(ドナウ川)の遡上は早くからの交易だけでなく、北方ステップからの部族の到来時に、西北への移動、すなわち「Funnel beaker」の拡散にかかわったと考えます。Varna cultureにおいては塩と黄金の交易で富を築き、Varna necropolisでは黄金とともに葬られています。

T-M184の東への拡散はペニスケースを伴いましたが、同じ様に黄金の副葬品に見付かった「Mace・メイス(打撃用の武器)」も、T-M184の拡散した地域で見つかっています。「Horn of Africa」から東への海路(イラン、インドなど)、そしてBC5,000年紀のメイスがウクライナで見つかっています。黒海大洪水の後Doniester riverを越えて、アフリカの部族が築いた「Cucuteni-Trybillian culture」期のウクライナです。エジプト南部・ヌビアの「King of Scorpion」のメイスについては、以前に書きました。ヌビア(Nubia)地域にはSudanも含まれます。

E1b1bについて、Eupediaに新しいゲノム解析が発表されています。中期石器時代にレバントに現れたHapurogroup E1b1bを持つ部族は、新石器時代までにライ麦などの穀物栽培を初めて始めた形跡があるそうです。この時期、イランやアナトリアの人骨にはE1b1bは発見されないそうです。つまり、これまで穀物栽培をバルカン半島へ伝播させたのは西アジアアナトリアの農民と言われてきましたが、穀物栽培を始め、伝播させたのはHapurogroup E1b1bを持つ部族だと言うことです。そしてHapurogroup E1b1bの起源は紅海周辺ではないかと書かれていました。

はっきり言えば「Horn of Afuric」です。最近多くの科学雑誌が、紅海を挟んだ対岸のサウジアラビア西南部にBC7,000年以上前の住居痕が発見されたと報じています。まだ穀物栽培は認められないので、「Horn of Afuric」からの拡散初期と考えるべきでしょう、レバントの遺跡と類似点があるそうです。

T-M184の海路・東への拡散をよく見ると、メソポタミアインダス川、そしてさらに北上して黄河上流域に達しています。もちろんナイル川は良く行き来する道です。彼らの良く現れる大河は、バルカン半島北部・ドナウ川に北方ステップの部族が現れ、その地を追われた後、やがて現れる四大文明の場所と重なります。

 

黄金と共に発掘された人骨のmtDNA(母方ハプログループ)は「U2」と発表されています。そのほかの人骨にも「I2a1」、「I2a2」のmtDNAが見つかっています。mtDNA」は文化を長く繋ぐDNA」で、その地域の基本的な成り立ちを語ってくれます。被征服地においても女性の移動は少なく、母から娘へと基層情報は引き継がれています。

 

mtDNA(母方ハプログループ)「U2」はUからですから、出アフリカの基本CFからの分岐になります。

mtDNA(母方ハプログループ)「I2a1」、「I2a2」はI,出アフリカの移動は基本分岐Mです。

 

(4)mtDNA Hapuroguroup CF;Wikipedia

(5)mtDNA Hapuroguroup M; wikipedia

ここから考えていけば、よく理解できます。またその後のDNA移動について、理解しやすくなります。

日本の基本的な二つのクラスターがMとNであることも付け加えておきます。

 

(6)Hapurogroup E-M96; Wikipedia

 

それとどうしてか、あまり書き込まれることのない、ナイル川を北上してレバントに至るルートは、いつも検証してみることが必要です。地図で見える通り、地中海地域を通れば、北アフリカだけでなく南西ヨーロッパへの近道になります。Hapuroguroup HVなどは北アフリカで見つかっています。穀物栽培の始まったレバントは、西アジアと一体の文化圏とみなした方が良く、地中海への入り口になります。写真(5)の西アジアに書かれているHapuroguroupsは一応検証すべきでしょう。私見ですが今のところHapuroguroup H1, H2はジブラルタル海峡を渡った後、イベリア半島で誕生したと思います。隕石の衝突(BC12,000年頃)後、H1,H2とI2a1,I2a2は南北の避難場所で生き残ります。その位置が当然違っています。H1,H2はバスクなど南西部に残り、I2a1は中央ヨーロッパ北部,I2a2はアルプスやバルカン半島で誕生しています。避難場所の違いは、それ以前の分布を反映しています。

それともう一つ、写真(5)には、フィリピン、韓国、日本などへの海上ルートが必要です。もちろん,Horn of Afuricaからの沿岸ルート延長線です

 

(7)mtDNA Hapuroguroup U, Hを持つ「Iberomaurusian」;Wikipedi

 

25/23,000~11,000BC年頃の北アフリカにHapuroguroupU は高頻度で現れます。さらにHapuroguroup U2はインドで高頻度です。Varna necropolis で黄金に囲まれて見付かった男性のmtDNA はHapuroguroup U2 です。この状況を理解するには、広大な部族の移動を考えなければいけません。

具体的には写真(6)に、「コーカサスを北上するルート」そして「Horn of Afuricからインド、南アジアへの海路」を付け加えることです。これは道ですから、この範囲を自由に動いています。そう考えることで、やっとこのすべての領域で起こったことの整合性が整います。そしてこの道の十字路は、写真(8)のLevant with Natufian regions だと考えます。
詳しく見ていきましょう

 


(8)A map of the Levant with Natufian regions across present-day Israel, Palestine, Jordan, and a long arm extending into Lebanon and Syria

Wikipedia

 

mtDNA Hapuroguroup U2

「Varna necropolis」で黄金に囲まれて発掘された人骨の、母方DNAはHapuroguroup U2でした。このHapuroguroupを詳しく見ていきましょう、きっと多くのことを語ってくれるはずです。U2への分岐に関しては、写真(5)が参考になります。アフリカの角(Horn of Africa)から沿岸移動(海の道)で東南アジアさらに日本や太平洋諸島へと続くこの道の上で、mtDNA Hapuroguroup L3からmtDNA Hapuroguroup M、Nが生まれ、mtDNA Hapuroguroup NからはmtDNA Hapuroguroup R、そしてmtDNA Hapuroguroup RからmtDNA Hapuroguroup Uが誕生するからです。

アフリカ大陸から出ていくことのなかったLが、L3の形で出アフリカしたのもM, Nが分岐したのも約70,000年頃前とされているため、発生場所の議論は絶えないようです。合理的なところでは、M, Nは70,000~55,000年前頃の西アジア、Rは70,000~55,000年前頃の西アジアからコーカサスの辺り、そしてUも46,000~33,000年頃前頃の西アジアからコーカサスでしょうか。そしてU2です。U2バングラデシュとインドで高頻度で現れることから、40,000年以上前にこの地で誕生したようです。バングラデシュは後にインダス文明が発展する土地で、インダス川が重要な意味を持ちます。中央アジア、ロシア、中国、アフガニスタンへの伝播は、インダス川上流からシルクロードの西端・カシュガルに至り、この十字路から広がったと思います。この古い時代から、このルートはすでに、人類の移動する道だったのです。同じ頃(40,000年前頃)U6はレヴァントからモロッコに拡がっていますから、写真(4,5,6,7)を加えた「道」を人類は行き来していたと思います。そう考えるとレヴァント、南コーカサス西アジア一帯はハブ的な領域であったと考えられます。

話をもとに戻して、Hapurogroup T-M184、「Varna necropolis」人骨のmtDNAがU2であったことには、想像力を豊かにします。世界の海と大河を自由に航海する(写真2)海洋民はHorn of Afuricaからインダス川を訪れて、この男性のDNAが作られたのではないか。もちろんU2バングラデシュ、インド以外に、広く薄く拡がっていますから、

特定の個人に当てはまるわけがありません。ただHapurogroup T-M184、「Varna necropolis」で黄金と共に見つかった男性は、Horn of Afuricaにルーツを持つ海洋民で、ブルガリアVarnaの「黄金」と「塩」の交易で財を成した人物なのでしょう。

 

I2a1,I2a2(YDNA)

約6万年以前にアジア方面に出アフリカしたHapuroguroup CFは、分岐を重ねて約4億年前にコーカサスからロシア、東ヨーロッパにHapuroguroup Iとして現れます。(この頃の黒海は今より小さな淡水湖で、道は大きく開いていました・参照

さらに東ヨーロッパでHapuroguroup I2が31,000~26,000年前頃に分岐し、中央・西ヨーロッパでさらにHapuroguroup I2aがこの後分岐します。写真(9)の分布頻度の高い南北の地域に挟まれている地域が、Hapuroguroup I2aの広まった地域だと考えています。

そしてこのI2aはI2a1とI2a2に大きく南北に分かれることになります。この分岐の時間軸は「Younger Dryas(12,900年前頃)」の始まりと重なります。つまり「隕石の衝突」を考えなければ歴史が繋がりません。これまでも「ズールーの神話」や「洞窟壁画」の中断とテーマの変化など、何度も書いてきました。奈良二月堂の「お水取り」や奈良五条「阿弥陀堂の鬼走り」など日本の「火祭り」にも、同じテーマがあることを見てきました。

そこで、きっと世界にも同じテーマの「火祭り」があるのではないかと検索しました。

スペインにありました。それも「ズールーの神話」とほとんど同じです。即座に二つのことが明らかになりました。これまでも言われてきたことですが「イベリア半島が隕石の衝突後の避難場所のひとつであったこと」、「イベリア半島と西北アフリカは同じ文化圏だったこと」です。

この祭りを詳しく見ていきましょう。

 

(9)スペイン サン・ファンの火祭りで焼かれる「オゲラス(Hougerasu)」;EXSENSES(参照1)、(参照2)

 

サン・ファンの火祭り

6月19日、女神を選び、木とダンボールで人形を含む色んな世界観のオブジェ(オゲラス)を作り始める。初日から毎日、花火を打ち上げ、爆竹を破裂させ火花と大音量で街を包む。24日最終日、花火爆竹の後、一斉にオブジェ(オゲラス)に火を放つ。燃える人形の周りでは、人が7回飛び跳ねる。燃え盛るオブジェ(オゲラス)の周りに集まった人々に水をかける。(今では消防ポンプでの放水)

ズールーの神話(アフリカ創世の神話・マジシ・クネーネ)

邪悪な女神の攻撃が始まる。はるかかなたの平原で火が燃え上がった。恐ろしい騒音とともに彼女が通った、竜巻が巻き上がり彼女を追った。腐敗する肢体が山を作った。人間の窮状を見た女がやってきて、その子供達を保護するように訴えた。先祖たちは天の王女に伝える。王女はヴェールで覆うように雨を降らせる。水が赤い平原に降った。地球を清めた。

北アフリカではこのことの後で、人の命を思考することから、宇宙を子宮の中に持つ「天の王女」を中心とするズールーの哲学的概念が作られていきます。

また西ヨーロッパでは、雨が大地のバランスを保ったことから、平衡の表象(VなどのCheveron)が生まれ、雨の女神が生み出される。

そして後に概念と表象はバルカン半島で出会います。このことは「女神たちの表象」の章で詳しく書いてきました。

 

(10)スペイン サン・ファンの火祭りで焼かれる「オゲラス(Hougerasu)」;朝日新聞デジタル

 

隕石の衝突はBC12,900年頃に北米・五大湖近くに起こり、分解した破片は自転により、ヨーロッパ中心部を西から東へと焼き尽くしたといわれています。写真(11)IやI2aの途切れた中心部です。

 

(11)Hapurogroup I; wikipedia

 

(12)I2a Hapurogroup Since the Last Ice Age; Plamstreetmusic(U-tube)

 

南に逃れ生き残ったYDNAHapuroguroup I2aを持つ部族は、地中海北岸の海岸地域に集まります。狩猟採集民だった彼らの獲物となる動物は、数を減らしていきます。そこで彼らは必然的に、魚や貝などの海産物を主食とするようになります。海の暮らしに慣れて海洋民となっていったと考えます。

上述したようにこの頃の地中海地域には、Horn of AfuricからのHapurogroup T-M184、Hapurogroup E1b1bを持つ部族がレバントをハブとして活動していました。やがてHapuroguroup I2a2を持ち海洋民族となった部族のもとに、彼らの活動によりレバントのナトーフ文化(BC12,500~BC9,000年頃)から土器製作が伝わってきます。ナトーフ文化文化では「Impressed ware(押圧土器)」と言って、土器の表面に硬いものを押し付けることによって文様(私たちの概念の文様ではなく、内容物や持主を示す目印だったと考えます)を付けていました。海洋民となっていたHapuroguroup I2a2の部族は、彼らが食料にしていた「Cardium edulis」と言う貝の殻を押圧します(まだ目印としての文様だと考えます)。エーゲ海周辺に拡がったこの土器文化を「Cardium pottery culture(BC6,400~BC5,500年頃)」と呼びます。やがて地中海全域に広がるのですが、南仏からサルデーニャ島で始まった、同じく「Cardium pottery culture」と呼ばれる土器文化は明らかにこれまでの文化とは違っています。文様が概念を示すようになります。文様の概念に大きな飛躍が認められます。

隕石の衝突後、雨によって大地が甦り、獲物となる動物も戻ってきます。その様子から、雨によって大地のバランスがとれ調和した状態を示す「Cheveron(VやXなど)」が生まれ、「雨の女神」の概念が生まれます。やがて両社は結び付き「雨による平衡と豊穣の女神」になります。この概念は南仏やサルデーニャ島の海洋民にも伝播します。この時「Cardium pottery culture」の「Cardium edulis(ザルガイ)」の貝殻文がすでに知られていました。南仏やサルデーニャ島の海洋民は身近にある「Pecten Maxinus(ホタテ貝)」に「雨による平衡と豊穣の女神」の表象をみつけ、女神のシンボルにしました。(ビーナスの誕生のホタテ貝にはこの概念が宿っています、巡礼者を示すホタテ貝も同様です)

開口部のギザギザは「Chevron平衡・vvvvv」、表面の斜線は雨、そして「△x2」の耳は△・女神 x2・平衡(平衡の女神)となります。

そしてホタテ貝の概念は地中海地域に広がります。後のクレタ島・ミノア文明の「諸刃の斧」や「羽を広げた蝶」などの表象も「雨による平衡と豊穣の女神」を表しています。同じく「△x2」の幾何学的な文様が後期の「Cardium pottery 」に見られます。

 

黒海大洪水の後、ブルガリアの「Karanovo culture」に「△x2の女神」が現れます。つまりHapuroguroup I2a2を持つ海洋民が、Horn of AfuricからのHapurogroup T-M184、Hapurogroup E1b1bを持つ部族と共に、Varnaを拠点に塩と黄金の交易を行うようになっていたことが分かります。「Varna necropolis」の人骨ゲノム解析でHapuroguroup I2a2が見つかった理由になります。

Hapuroguroup I2a1は北に非難したHapuroguroup I2aから分岐しました。Hapuroguroup I2a2と同じ様に「Varna necropolis」の人骨から見つかっています。

このことは、写真(2)の様にHapurogroup T-M184の交易の広さで説明できると思います。彼らは海だけでなく、大きな河川も遡っています。ドナウ川も航海していました。Hapuroguroup I2a2とHapuroguroup I2a1はどこかで出会い、行動を共にしたのでしょう。

また次に説明する「YDNA Hapuroguroup G2a」と同じように、母方の文化で育つ父が他部族の子供は、父のHapuroguroup を継承していくことになります。

G2a(YDNA)

 

このまま続く

コーカサスの部族

 

 

The Ain Sakhri lovers, from Ain Sakhri, near Bethleem (British Museum: 1958,1007.1 )
Wikipedia

()Menhir in Ethiopia; wikipedia


f:id:blogwakujewelry:20180909212958j:plain

()Late Cucuteni culture,w Ukraina ;c 3,800~3,600BC

        The Language of GODDESS

 

(28)和久ノート(参照)

 

(1)Menhir(立石)at the village of Oveharovo,Haskovo;MEGALITHIC BULGARIA VAGABOND(参照)
重要です。

生名島メンヒルは同じルーツですね。

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