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Varna necropolis 人骨のゲノム解析
(1)紀元前4,500年頃の、世界最古の金の宝飾品を含む、エリート男性の埋葬地の復元。 Wikipedia
Genetics
The elite male from Grave 43(c.4495BC)belongedto the paternal(Y-DNA)haplogroupT-M184 and the maternal(mtDNA)haplogroupU2.
Other male samples from the Varna necropolis belonged to the Y-DNA haplogroups I2a1, I2a2, G2a, T1a, E1b1b and R1b-V88
wikipedia
「Varna necropolis」人骨のゲノム解析 によると、地中海と北(北東)アフリカ海洋民のゲノムが大勢を占めていることが解かりました。詳しく個別のDNA haplogroupを見ていきます。これまで調べたコーカサス 部族の歴史や文化、さらには「共同納骨墓」(参照) を考慮に入れるとその全体像が理解出来るはずです。このことは、「墓としてのDolmenの拡散」を理解するうえの出発点になります。
先ずは二つのHapurogroupから見ていきます。なぜなら、黄金に囲まれて見付かった人骨には「kOTEKA(インドネシア語 ・ペニスケースのこと)」が副葬されていたからです。アフリカでペニスケース装着の風習が認められるのはSudanの一部族のみであること、Varna culture以前のバルカン半島 で特筆されるのは「Menhir & Stone-circle」の文化であることです。「Horn of Africa」には原始的な男根のMenhirから、北方ステップ地帯 にある「Kurgan stela(人面立石)」まで見つかります。北方ステップ地帯 までもの、人と文化の交流が認められます。
またこれらはmtDNA Mの東への拡散を証明することになります。後で詳しく触れましょう。
(2)Hapurogroup T-M184; wikipedia
(2)Hapurogroup E1b1b; wikipedia
(3)Horn of Africa; Reseachgate; wikipedia
Varna necropolis人骨のゲノムが分かったことにより、これまで様々な方法で試みてきた東ブルガリア のBC7,000年以後の歴史が、スッキリとまとまりました。この地域の歴史を創った部族の注目点は、[Horn of Africa]に有りました。Varna necropolisで黄金に囲まれて眠る人物のルーツです。T-M184とE1b1bのゲノムから検証していきましょう。
写真(2)(3)を見れば一目瞭然です。DjiboutiとSomaliaにはHapurogroup T-M184が多く、E1b1bはEritreaとEthiopia、DjiboutiとSomalia全てに色濃く分布します。Ethiopiaでは約58%の人がHapurogroupE1b1bを持っており、E1b1bの分岐はこの地域で起こったと考えられています。Hapurogroupの拡散に関しては、少し違った様子が見られます。
そもそもHorn of Afuricは数百の部族が争ったり、緩やかな協調したりして暮らす領域です。T-M184は紅海やインド洋に面した海岸地帯の部族が多く、E1b1bは内陸のEthiopiaなどに多い集団です。E1b1bは内陸を中心に北上しています。当時まだ湿潤だった北アフリカ 一帯に拡がっています。「Tassili-n-Ajjer」の岩絵やズールーの概念を発展させたのも彼らだと思います。もちろん海洋民の部族もいますから、北アフリカ 、地中海での交易にも参加しています。だからベルベル人 (Berber people)の多くがE1b1b、同下部ハプログループを持っています。
ただし最初にバルカン半島 にStonecircle &Menhir を築いたE1b1bグループはHorn of Afuricから北上した部族です。ベルベル人 は遅れてズールーの概念を発展させた後、北上します。
一方T-M184は本格的な海洋民に多いHapurogroupです。インド洋を航海したり、ペルシャ湾 に入り、Tigris-Euphrates riverを遡り西アジア に到達しています。紅海を北上してナイル川 から地中海に入っています。黒海 大洪水の後には黒海 に入り、DnieperやDonets riverまで遡上しています。Dnube(ドナウ川 )の遡上は早くからの交易だけでなく、北方ステップからの部族の到来時に、西北への移動、すなわち「Funnel beaker」の拡散にかかわったと考えます。Varna cultureにおいては塩と黄金の交易で富を築き、Varna necropolisでは黄金とともに葬られています。
T-M184の東への拡散はペニスケースを伴いましたが、同じ様に黄金の副葬品に見付かった「Mace・メイス(打撃用の武器)」も、T-M184の拡散した地域で見つかっています。「Horn of Africa」から東への海路(イラン、インドなど)、そしてBC5,000年紀のメイスがウクライナ で見つかっています。黒海 大洪水の後Doniester riverを越えて、アフリカの部族が築いた「Cucuteni-Trybillian culture」期のウクライナ です。エジプト南部・ヌビアの「King of Scorpion」のメイスについては、以前に書きました。ヌビア(Nubia)地域にはSudanも含まれます。
E1b1bについて、Eupediaに新しいゲノム解析 が発表されています。中期石器時代 にレバントに現れたHapurogroup E1b1bを持つ部族は、新石器時代 までにライ麦 などの穀物 栽培を初めて始めた形跡があるそうです。この時期、イランやアナトリア の人骨にはE1b1bは発見されないそうです。つまり、これまで穀物 栽培をバルカン半島 へ伝播させたのは西アジア やアナトリア の農民と言われてきましたが、穀物 栽培を始め、伝播させたのはHapurogroup E1b1bを持つ部族だと言うことです。そしてHapurogroup E1b1bの起源は紅海周辺ではないかと書かれていました。
はっきり言えば「Horn of Afuric」です。最近多くの科学雑誌 が、紅海を挟んだ対岸のサウジアラビア 西南部にBC7,000年以上前の住居痕が発見されたと報じています。まだ穀物 栽培は認められないので、「Horn of Afuric」からの拡散初期と考えるべきでしょう、レバントの遺跡と類似点があるそうです。
T-M184の海路・東への拡散をよく見ると、メソポタミア とインダス川 、そしてさらに北上して黄河 上流域に達しています。もちろんナイル川 は良く行き来する道です。彼らの良く現れる大河は、バルカン半島 北部・ドナウ川 に北方ステップの部族が現れ、その地を追われた後、やがて現れる四大文明 の場所と重なります。
黄金と共に発掘された人骨のmtDNA(母方ハプログループ)は「U2 」と発表されています。そのほかの人骨にも「I2a1」、「I2a2」のmtDNAが見つかっています。mtDNA」は文化を長く繋ぐDNA」で、その地域の基本的な成り立ちを語ってくれます。被征服地においても女性の移動は少なく、母から娘へと基層情報は引き継がれています。
mtDNA(母方ハプログループ)「U2 」はUからですから、出アフリカの基本CFからの分岐になります。
mtDNA(母方ハプログループ)「I2a1」、「I2a2」はI,出アフリカの移動は基本分岐Mです。
(4)mtDNA Hapuroguroup CF;Wikipedia
(5)mtDNA Hapuroguroup M; wikipedia
ここから考えていけば、よく理解できます。またその後のDNA移動について、理解しやすくなります。
日本の基本的な二つのクラスタ ーがMとNであることも付け加えておきます。
(6)Hapurogroup E-M96; Wikipedia
それとどうしてか、あまり書き込まれることのない、ナイル川 を北上してレバントに至るルートは、いつも検証してみることが必要です。地図で見える通り、地中海地域を通れば、北アフリカ だけでなく南西ヨーロッパへの近道になります。Hapuroguroup HVなどは北アフリカ で見つかっています。穀物 栽培の始まったレバントは、西アジア と一体の文化圏とみなした方が良く、地中海への入り口になります。写真(5)の西アジア に書かれているHapuroguroupsは一応検証すべきでしょう。私見 ですが今のところHapuroguroup H1, H2はジブラルタル海峡 を渡った後、イベリア半島 で誕生したと思います。隕石の衝突(BC12,000年頃)後、H1,H2とI2a1,I2a2は南北の避難場所で生き残ります。その位置が当然違っています。H1,H2はバスク など南西部に残り、I2a1は中央ヨーロッパ 北部,I2a2はアルプスやバルカン半島 で誕生しています。避難場所の違いは、それ以前の分布を反映しています。
それともう一つ、写真(5)には、フィリピン、韓国、日本などへの海上 ルートが必要です。もちろん,Horn of Afuricaからの沿岸ルート延長線です8
(7)mtDNA Hapuroguroup U, Hを持つ「Iberomaurusian」;Wikipedi
25/23,000~11,000BC年頃の北アフリカ にHapuroguroupU は高頻度で現れます。さらにHapuroguroup U2はインドで高頻度です。Varna necropolis で黄金に囲まれて見付かった男性のmtDNA はHapuroguroup U2 です。この状況を理解するには、広大な部族の移動を考えなければいけません。
具体的には写真(6)に、「コーカサス を北上するルート」そして「Horn of Afuricからインド、南アジアへの海路」を付け加えることです。これは道ですから、この範囲を自由に動いています。そう考えることで、やっとこのすべての領域で起こったことの整合性が整います。そしてこの道の十字路は、写真(8)のLevant with Natufian regions だと考えます。 詳しく見ていきましょう
(8)A map of the Levant with Natufian regions across present-day Israel, Palestine, Jordan, and a long arm extending into Lebanon and Syria
Wikipedia
mtDNA Hapuroguroup U2
「Varna necropolis」で黄金に囲まれて発掘された人骨の、母方DNAはHapuroguroup U2 でした。このHapuroguroupを詳しく見ていきましょう、きっと多くのことを語ってくれるはずです。U2 への分岐に関しては、写真(5)が参考になります。アフリカの角 (Horn of Africa)から沿岸移動(海の道)で東南アジアさらに日本や太平洋諸島へと続くこの道の上で、mtDNA Hapuroguroup L3からmtDNA Hapuroguroup M、Nが生まれ、mtDNA Hapuroguroup NからはmtDNA Hapuroguroup R、そしてmtDNA Hapuroguroup RからmtDNA Hapuroguroup Uが誕生するからです。
アフリカ大陸から出ていくことのなかったLが、L3の形で出アフリカしたのもM, Nが分岐したのも約70,000年頃前とされているため、発生場所の議論は絶えないようです。合理的なところでは、M, Nは70,000~55,000年前頃の西アジア 、Rは70,000~55,000年前頃の西アジア からコーカサス の辺り、そしてUも46,000~33,000年頃前頃の西アジア からコーカサス でしょうか。そしてU2 です。U2 はバングラデシュ とインドで高頻度で現れることから、40,000年以上前にこの地で誕生したようです。バングラデシュ は後にインダス文明 が発展する土地で、インダス川 が重要な意味を持ちます。中央アジア 、ロシア、中国、アフガニスタン への伝播は、インダス川 上流からシルクロード の西端・カシュガル に至り、この十字路から広がったと思います。この古い時代から、このルートはすでに、人類の移動する道だったのです。同じ頃(40,000年前頃)U6はレヴァントからモロッコ に拡がっていますから、写真(4,5,6,7)を加えた「道」を人類は行き来していたと思います。そう考えるとレヴァント、南コーカサス 、西アジア 一帯はハブ的な領域であったと考えられます。
話をもとに戻して、Hapurogroup T-M184、「Varna necropolis」人骨のmtDNAがU2 であったことには、想像力を豊かにします。世界の海と大河を自由に航海する(写真2)海洋民はHorn of Afuricaからインダス川 を訪れて、この男性のDNAが作られたのではないか。もちろんU2 はバングラデシュ 、インド以外に、広く薄く拡がっていますから、
特定の個人に当てはまるわけがありません。ただHapurogroup T-M184、「Varna necropolis」で黄金と共に見つかった男性は、Horn of Afuricaにルーツを持つ海洋民で、ブルガリア Varnaの「黄金」と「塩」の交易で財を成した人物なのでしょう。
I2a1,I2a2(YDNA)
約6万年以前にアジア方面に出アフリカしたHapuroguroup CFは、分岐を重ねて約4億年前にコーカサス からロシア、東ヨーロッパにHapuroguroup Iとして現れます。(この頃の黒海 は今より小さな淡水湖で、道は大きく開いていました・参照 )
さらに東ヨーロッパでHapuroguroup I2が31,000~26,000年前頃に分岐し、中央・西ヨーロッパでさらにHapuroguroup I2aがこの後分岐します。写真(9)の分布頻度の高い南北の地域に挟まれている地域が、Hapuroguroup I2aの広まった地域だと考えています。
そしてこのI2aはI2a1とI2a2に大きく南北に分かれることになります。この分岐の時間軸は「Younger Dryas(12,900年前頃)」の始まりと重なります。つまり「隕石の衝突」を考えなければ歴史が繋がりません。これまでも「ズールーの神話」や「洞窟壁画」の中断とテーマの変化など、何度も書いてきました。奈良二月堂の「お水取り」や奈良五条「阿弥陀堂 の鬼走り」など日本の「火祭り」にも、同じテーマがあることを見てきました。
そこで、きっと世界にも同じテーマの「火祭り」があるのではないかと検索しました。
スペインにありました。それも「ズールーの神話」とほとんど同じです。即座に二つのことが明らかになりました。これまでも言われてきたことですが「イベリア半島 が隕石の衝突後の避難場所のひとつであったこと」、「イベリア半島 と西北アフリカ は同じ文化圏だったこと」です。
この祭りを詳しく見ていきましょう。
(9)スペイン サン・ファンの火祭りで焼かれる「オゲラス(Hougerasu)」;EXSENSES(参照1)、 (参照2)
サン・ファンの火祭り
6月19日、女神を選び、木とダンボー ルで人形を含む色んな世界観のオブジェ(オゲラス)を作り始める。初日から毎日、花火を打ち上げ、爆竹を破裂させ火花と大音量で街を包む。24日最終日、花火爆竹の後、一斉にオブジェ(オゲラス)に火を放つ。燃える人形の周りでは、人が7回飛び跳ねる。燃え盛るオブジェ(オゲラス)の周りに集まった人々に水をかける。(今では消防ポンプでの放水)
ズールーの神話(アフリカ創世の神話・マジシ・クネーネ)
邪悪な女神の攻撃が始まる。はるかかなたの平原で火が燃え上がった。恐ろしい騒音とともに彼女が通った、竜巻が巻き上がり彼女を追った。腐敗する肢体が山を作った。人間の窮状を見た女がやってきて、その子供達を保護するように訴えた。先祖たちは天の王女に伝える。王女はヴェールで覆うように雨を降らせる。水が赤い平原に降った。地球を清めた。
北アフリカ ではこのことの後で、人の命を思考することから、宇宙を子宮の中に持つ「天の王女」を中心とするズールーの哲学的概念が作られていきます。
また西ヨーロッパでは、雨が大地のバランスを保ったことから、平衡の表象(VなどのCheveron)が生まれ、雨の女神が生み出される。
そして後に概念と表象はバルカン半島 で出会います。このことは「女神たちの表象」の章で詳しく書いてきました。
(10)スペイン サン・ファンの火祭りで焼かれる「オゲラス(Hougerasu)」;朝日新聞デジタル
隕石の衝突はBC12,900年頃に北米・五大湖 近くに起こり、分解した破片は自転により、ヨーロッパ中心部を西から東へと焼き尽くしたといわれています。写真(11)IやI2aの途切れた中心部です。
(11)Hapurogroup I; wikipedia
(12)I2a Hapurogroup Since the Last Ice Age; Plamstreetmusic(U-tube)
南に逃れ生き残ったYDNAHapuroguroup I2aを持つ部族は、地中海北岸の海岸地域に集まります。狩猟採集民だった彼らの獲物となる動物は、数を減らしていきます。そこで彼らは必然的に、魚や貝などの海産物を主食とするようになります。海の暮らしに慣れて海洋民となっていったと考えます。
上述したようにこの頃の地中海地域には、Horn of AfuricからのHapurogroup T-M184、Hapurogroup E1b1bを持つ部族がレバントをハブとして活動していました。やがてHapuroguroup I2a2を持ち海洋民族となった部族のもとに、彼らの活動によりレバントのナトーフ文化(BC12,500~BC9,000年頃)から土器製作が伝わってきます。ナトーフ文化文化では「Impressed ware(押圧土器)」と言って、土器の表面に硬いものを押し付けることによって文様(私たちの概念の文様ではなく、内容物や持主を示す目印だったと考えます)を付けていました。海洋民となっていたHapuroguroup I2a2の部族は、彼らが食料にしていた「Cardium edulis」と言う貝の殻を押圧します(まだ目印としての文様だと考えます)。エーゲ海 周辺に拡がったこの土器文化を「Cardium pottery culture(BC6,400~BC5,500年頃)」と呼びます。やがて地中海全域に広がるのですが、南仏からサルデーニャ島 で始まった、同じく「Cardium pottery culture」と呼ばれる土器文化は明らかにこれまでの文化とは違っています。文様が概念を示すようになります。文様の概念に大きな飛躍が認められます。
隕石の衝突後、雨によって大地が甦り、獲物となる動物も戻ってきます。その様子から、雨によって大地のバランスがとれ調和した状態を示す「Cheveron(VやXなど)」が生まれ、「雨の女神」の概念が生まれます。やがて両社は結び付き「雨による平衡と豊穣の女神」になります。この概念は南仏やサルデーニャ島 の海洋民にも伝播します。この時「Cardium pottery culture」の「Cardium edulis(ザルガイ)」の貝殻文がすでに知られていました。南仏やサルデーニャ島 の海洋民は身近にある「Pecten Maxinus(ホタテ貝)」に「雨による平衡と豊穣の女神」の表象をみつけ、女神のシンボルにしました。(ビーナスの誕生のホタテ貝にはこの概念が宿っています、巡礼者を示すホタテ貝も同様です)
開口部のギザギザは「Chevron平衡・vvvvv」、表面の斜線は雨、そして「△x2」の耳は△・女神 x2・平衡(平衡の女神)となります。
そしてホタテ貝の概念は地中海地域に広がります。後のクレタ島 ・ミノア文明の「諸刃の斧」や「羽を広げた蝶」などの表象も「雨による平衡と豊穣の女神」を表しています。同じく「△x2」の幾何学 的な文様が後期の「Cardium pottery 」に見られます。
黒海 大洪水の後、ブルガリア の「Karanovo culture」に「△x2の女神」が現れます。つまりHapuroguroup I2a2を持つ海洋民が、Horn of AfuricからのHapurogroup T-M184、Hapurogroup E1b1bを持つ部族と共に、Varnaを拠点に塩と黄金の交易を行うようになっていたことが分かります。「Varna necropolis」の人骨ゲノム解析 でHapuroguroup I2a2が見つかった理由になります。
Hapuroguroup I2a1は北に避難したHapuroguroup I2aから分岐しました。Hapuroguroup I2a2と同じ様に「Varna necropolis」の人骨から見つかっています。
このことは、写真(2)の様にHapurogroup T-M184の交易の広さで説明できると思います。彼らは海だけでなく、大きな河川も遡っています。ドナウ川 も航海していました。Hapuroguroup I2a2とHapuroguroup I2a1はどこかで出会い、行動を共にしたのでしょう。
G2a(YDNA)
約6万年前に出アフリカしたYDNA Hapuroguroup Fは、西アジア に留まります。そして約5万年前にHapuroguroupGが分岐します。レバント、アルメニア 、北メソポタミア 、いわゆるソグドの居住地辺りで分岐したとされているようです。やがて隕石衝突後の寒冷期、HapuroguroupGはG1,G2に分岐します。G1はよりよい環境を求めて、イラン、バングラデシュ の方面に進出します。G2は獲物となる動物の減少により、この地で食料となる植物の栽培、少し遅れてヤギなどの家畜化を始めます。BC11,500年頃の初期農耕の始まりです。
さらにHapuroguroup G2aとG2bに分かれ、にHapuroguroup G2aはコーカサス地方 (現在はトルコ領の、コーカサス 諸語 Laz語圏を含みます。)で農耕牧畜を発達させていきます。Hapuroguroup G2bはパキスタン 方面に広がります。
写真(14)で確認できるようにカスピ海 沿岸のアゼルバイジャン と,黒海 沿岸の「南コーカサス 諸語Kartveli」のザン語圏(Zan)、すなはちラズ語圏(Laz)とメグレル語圏(Megrel)で発達したようです。メグレル語圏(Megrel)は写真(14)にはほとんど出ていません。何故ならこの時は黒海 大洪水の前ーまだ小さな淡水湖の時代で、洪水後の地図では湖底に沈んでいます。写真(18)を参照してください。
ここから初期農法牧畜を伴うHapuroguroup G2aの拡散が始まります。写真(14)、(16)(17)を注視してください。いずれも黒海 大洪水以前の伝播になります。
g
(13)Wikipedia
; Eupedia
Haplogroup G2a コーカサス から最初の伝播は北とアナトリア 方面になっています。
時系列で一番早く移動を始めたのは、HapuroguroupG2a-L293のようです。この時点から、コーカサス から北とアナトリア 方面に痕跡を残しています。
アナトリア半島 を目指した部族は、半島を斜めに移動してエーゲ海 (Aegean Sea)に出ています。そしてイオニア海 (Ionian Sea)、アドレア海(Adriatic Sea)、ティレニア海 (Tyrrhenian Sea)で活動しています。この頃にはHorn of AfuricからHapuroguroup E1b1bやT-M184も地中海地域で活動していましたから、彼らと合流する形で海洋民になっていったと考えられます。後に「墓としてのDolmen」を地中海を西に伝播させたHapuroguroupG2aは元々海洋民だったことになります。前述のHapuroguroupI2a2も、一部は同じ様に海洋民になっています。
さらに、アナトリア半島 からギリシャ 半島に北上した痕跡が残っています。このことは、ギリシャ 半島への初期農耕の伝播とGroup Dolmenから説明できます。
(14)Hapuroguroup G2a-L293; Eupedia; Eupedia
Individial Menhir(打ち欠けのある単独メンヒール・安産多産の子孫繫栄を願う男根)がギリシャ 半島を北上したのは、HapuroguroupE1b1bがHorn of Afuricから内陸部を北上して、北アフリカ からレバントに拡がった後だったはずです。HapuroguroupE1b1bはHapuroguroupG2aと同じく、レバントー西アジア での初期農業の開始と発展に関係しているHapuroguroupです。ですから、バルカン半島 にアナトリア から初期農業が伝播したのは、Individial Menhir(打ち欠けのある単独メンヒール)がギリシャ 半島を北上した後になります。
そしてBC7,000年頃、初期農耕がギリシャ 半島に入り、狭い領域を北上します。このことは、Group Menhirs(複数の立石が雨や雲を表象する・五穀豊穣の表象、仏・カルナック列石群と同じ表象)と重なります。Menhirの変化が、初期農耕の伝播を示しています。ですから、Hapuroguroup G2a-L293とGroup Menhirsの狭い領域は、見事に重なるのです。
なお写真(14)では、バルカン半島 を北上したHapuroguroup G2a-L293がドナウ川 を越えてさらに北上していますが、これには疑問があります。ドナウ川 の北部にGroup Menhirsは作られていません。そしてドナウ川 の北部にはカルパティア山脈 (Carpathan Mountains)が立ちはだかっています。さらに写真(18)が示すように、Bug-Dniester cultureの初期農耕はコーカサス地方 の特徴を持ち、尖底土器や葡萄酒用の土器などもコーカサス の特徴と一致します。狭かった淡水湖だった黒海 の北部からの流入 だと考えています。(参照)
そしてハンガーの初期農耕や土器はBug-Dniester cultureの影響が報告されています。
その後につづくHapuroguroup G2a-M406を見るとアナトリア半島 からは地中海への進出がさらに進む様子が現れています。バルカン半島 北部への進出はGroup Menhirsが築かれて後は確認できません。このHapuroguroup G2a-M406とHapuroguroup G2a-L293は重なるように伝播したものと考えられます。そうすることでフランス カルナック列石(Alignements de carnac)が、ブルガリア のGroup Menhirsと同じ表象として築かれたことが理解できます。カルナック列石が築かれた時が、初期農耕がフランスに伝播した時です。
またHapuroguroup G2a-L293の北への伝播も大切で、写真(14)で見るように、コーカサス 東側はカスピ海 沿いに北上してヴォルガ川 とウラル川 を遡ります。ヴォルガ川 からはモスクワ地域に拡がっています。ウラル川 はロシアとカザフスタン の国境を遡り、やがてロシア、モンゴルの国境をウラル山脈 に向かいます。ウラル山脈 南端は、モンゴル語 で「金の山」と呼ばれる「アルタイ」です。後に、この地に金の採掘がコーカサス から伝わるルートになります。
また、今より小さかった淡水黒海 からの伝播は写真(18)に表しましたが、現在は海底になります。
(15)Megalithic ・巨石構造物(1)(参照)
その後、黒海 大洪水(BC5,600年頃)が始まると、HapuroguroupG2a-M406, G2a-U1,
G2a-L497に見られる変化が起こります。それまで写真(18)に見られるように、小さかった淡水黒海 の湖岸を農耕文化はDniester riverに向かって伝播し「Bug-Dniesuter culture」を作っていました。黒海 大洪水(BC5,600年頃)が始まると、湖岸に居住していた部族達はDonets, Dnieper、Dniesterの上流に避難して行きます。Donets river , Dnieper riverの上流域には避難所的な「DnieperーD0nets culture」が生れています。
同時にドナウ川 の下流 域にいたズールーの概念を持つアフリカからの部族達(Starcevo culture)は、Dniester riverを越えて北上し、ルーマニア 、ウクライナ の領域に「Pre-Cucuteni-Trybillia culture」を築いていきます。
HapuroguroupG2a-M406, G2a-U1,G2a-L497を持つ「Bug-Dniesuter culture」、「DnieperーD0nets culture」の部族は新しい農耕地を求めて西に、中央ヨーロッパ に移動していきます。
ここで注目していただきたいのは写真(19)HapuroguroupG2a-L497のコーカサス から北のルートを辿った部族が、アルプス山脈 の北に多く居住を始めたことです。コーカサス 式の初期農耕がこの地に伝わっています。そして写真(17)HapuroguroupG2a-U1はイタリア半島 を北上しています。この部族はコーカサス からアナトリア を斜めに横切り、エーゲ海 に出た部族です。
そして写真(19)G2a-L497の様に、南北のHapuroguroupG2aの部族達は、アルプス山脈 で互に違う文化を獲得して出会い、融合していきます。
余談ですが、神社様式、神戸で見られるような沼地の杭打ちなどの木造建築、稲作や柿などの農作物、二つの墓制(鳥葬と土壙墓)、鳥占い、ゴルゴン(朝日または蛇の頭からの突出)、女神の宿る鹿などなど、アルプス南麓、北イタリアのインドヨーロッパ語族南下前の文化は、日本の弥生時代 の文化とそっくりなのです。(奈良五条、唐古・鍵遺跡など)
(16)G2a-M406; Eupedia
(17)G2a-U1; Eupedia
(18)和久ノート; 黒海 大洪水以前の初期農耕伝播(4)(参照)
(18)和久ノート黒海 大洪水以後の文化の移動(参照)
(19)G2a-L497; Eupedia
さらに現在に残った痕跡ー写真(20)のY-HapuroguroupG を見てみると、面白い発見があります。これまで見てきた伝播で説明できない場所に、HapuroguroupG2aはその痕跡を残しています。ドナウ川 の下流 域(Varna culture)、オリュンポス山 (Mount Olympus )周辺、イランも含めたクラーアラク セス文化圏(Kura-Alaxes culture)、スペインのムルシア 。そして面白いのは本来高密度に出るはずのジョージア 西部が意外と少ないことです。
ドナウ川 の下流 域はVarna culture(BC4,500~BC4,100年頃)が始まった場所です。この場所にいきなりYーDNAHapuroguroupG2aが登場するわけですが、ここに至る経路はまったく不明です。しかしこの時期彼らしか持ちえない金の採掘、冶金、加工技術がVarna cultureで使われ、交易品になっています。金の採掘、冶金、加工技術は黒海 大洪水の後、「ノアの箱舟 」の様な高原で生まれた[Shulaveri-Shomu culture(BC5,600~BC4,000年頃)]に求められます。(参照・1), (参照・2)
推論ですが、コーカサス からアナトリア を斜めにエーゲ海 に出て、海洋民となり、アフリカ・Horn of AfuricからのY-DNA Hapurogroup T-M184やHapurogroup E1b1bと行動を共にしていたY-DNA HapurogroupG2aの部族と、Shulaveri-Shomu cultureの金の採掘、冶金、加工技術を持つY-DNA HapurogroupG2aの部族は、金の採掘、冶金、加工と海上 交易を分業することを、どこかの場所で決めて、金鉱脈のあるブルガリア にやってきたのではないでしょうか。もちろん塩の交易は海洋民が最初から始めていたかもしれません。
次に、ギリシャ 神話で神々の住まうオリュンポス山 (Mount Olympus )周辺の村々にYーDNAHapuroguroupG2aが高頻度で現れることは非常に興味深いことです。この地域への入植がいつ頃だったのかは、いくつもの節目があり難しい判断です。確実なのが「ギリシャ 神話」成立以前、もっと言えば「暗黒時代(BC1,200~BC700年頃)」以前であることです。Yamuna cultureなどのHapuroguroupR1b(インドヨーロッパ語族)が南下してギリシャ の部族構成が新しく組み変わっていく以前に、すでに高度な文化を持った地域だった故に「オリュンポス12神」の住まう「神々の山」になったと考えられます。
もっと確実な方法は言語学 からのアプローチだと思います、一部の言語学者 が言うように「オリュンポス」の言葉自体がミケーネ文明の言語と同源であるようです。つまりYーDNAHapuroguroupG2a(コーカサス 諸言語の部族)のミケーネ文明(BC1,600~BC1,200年頃)に現れた言語の発達段階を辿っていけば、ミノア文明(BC2,000~BC1,400年頃) かブルガリア でのどの時点であるのか、分かるはずです。ただ言語というより、意味を持つ表象であつた時期が長く表音文字 以前の表意文字 を探る難しいさぎょうになります。ミノア文明のさらなる言語学 的研究がまたれます。
ギリシャ 神話については多くの資料があり、今さら素人が言及することはないだろう。
表象文化史から見れば、「暗黒時代(BC1,200~BC700年頃)」以前に信奉された、表象を伴った女神達がいかなる存在になっていったのかに興味があります。様々の女神に分岐されていった神格はイシュタル(雨による平衡と豊穣の女神+冥界の女神)、ヴィーナス(生命誕生の女神、出産、安産)、天の王女(子宮内に宇宙が相似的に存在するズールー概念の女神)の属性です。つまり、HapuroguroupR1b(インドヨーロッパ語族)がバルカン半島 に南下する以前この地で信奉されていた女神達です。そしてその姿を「ガイア」が留めています。
ギリシャ 神話で「ガイア」は世界の始まりの時から存在していた原初神 で、自らの力だけで天、海、山の神を産みます。生命誕生の女神が宇宙、平衡と豊穣の大地と冥界を生んでいくのです。このギリシャ 神話の始まりはインドヨーロッパ語族南下前のバルカン半島 の世界です。
一方、北の草原の部族には共通する「雷の神」が存在します。ゼウスの誕生がインドヨーロッパ語族の世界に組み変わったことを知らしめています。
つまりギリシャ 神話とは、ざっくりといえば、HapuroguroupR1b(インドヨーロッパ語族)がバルカン半島 に南下する以前の女神達の世界を原初の世界として引き継ぎながら、南下中の「暗黒時代(BC1,200~BC700年頃)」を神々の闘争期として、ゼウスの勝利でインドヨーロッパ語族のギリシャ 制圧としています。
「墓としてのDolmen」(参照) はHapuroguroupR1b(インドヨーロッパ語族)がドナウ川 下流 域に現れ、それまでの部族がブルガリア 南東部に逃れて築いた文化です。
インドヨーロッパ語族のさらなる南下と戦いつつ、多くの部族は東西に逃れていきます。これが「墓としてのDolmen」の伝播です。ただしここで伝播に関わったのはこれまで見てきた、YーDNAHapuroguroupG2a、I2aだけではありません。
次のHapuroguroupG2aの多く見られる場所です。
トランスコーカサス 、イラン、アルメニア 、トルコ、シリアなどに拡がったクラーアラク セス文化圏(Kura-Alaxes culture BC3,400~BC2,000年頃)はHapuroguroupG2aも見つかりますがHapuroguroupG2bが多くなります。この時期の、この地域は非常に複雑な部族の移動があるので、深入りせずに大きく見ていきます。
黒海 大洪水の後、ノアの箱舟 の様に、ジョージア 東部の高原に生まれたShalaveri-Shomu culture(BC5,600~BC4,000年頃)。ここで始まった金鉱石の採掘、冶金、金細工の技術を持ってブルガリア に移動したのがVarna culture(BC4,500~BC4,100年頃)で金採掘のをしたHapuroguroupG2aの部族です。一方、Shalaveri-Shomu culture(BC5,600~BC4,000年頃)の部族はBC4,000年頃になると高原を下り始めます。Kura river,Alaxes riverに広がりアララト高原にもも広がっていきます。
このShalaveri-Shomu cultureの終焉直後に二つの冶金技術を持つ文化が起こります。アゼルバイジャン のLeyia-Tepe culture(BC3,800~BC3,200年頃)、そしてMaykop culture(BC3,700~BC2500年頃、)です。Leyia-Tepe cultureではKurgan(クルガン墓)が見られ、Maykop cultureではKurgan(クルガン墓)と多数のDolmenが見られます。どちらもトランスコーカサス では初めてのことです。
DolmenとKurganは違う墓制と見ない方が歴史の流れを追いやすくなります。Dolmenも洞穴がルーツですから、ほとんどは小石や土で覆われていたものです。土質や気候により石組だけになったり、そのままマウンドが残ったりしています。玄室も大きな石が利用できないところでは、洞穴や木製になります。
もっと大切なことは、個人墓か集合墓か、骨のみを入れるのかそのまま埋葬するかです。BC4,000年以前を見ると、アフリカ系は全身の個人土壙墓、コーカサス 系は骨のみの集団墓が見られます。Leyia-Tepe cultureのKurgan(クルガン墓)は集団埋葬です。ですから、同じKurgan(クルガン墓)でも、権力者の墓ではありません。他の条件などから、Shalaveri-Shomu cultureと同じ系統の部族だと思います。一方、Maykop culture(BC3,700~BC2500年頃、)のKurgan(クルガン墓)は黄金製品に囲まれた権力者の個人墓です。Leyia-Tepe cultureのKurganはコーカサス の部族達、Maykop culture(BC3,700~BC2500年頃、)のKurganはアフリカ系の部族と考えることができます。またMaykop culture(BC3,700~BC2500年頃、)にはDolmenの骨のみの集団墓が数多く残っています。ブルガリア と同じ協力関係が考えられます。つまり主にHapuroguroupG2aの部族が金の採掘、冶金、加工をして、アフリカ系の海洋民(Hapurogroup T-M184、E1b1bなど)が交易を担当したと思われます。Varna cultureと同じ役割分担です。
Leyia-Tepe cultureの頃からブルガリア のDolmen文化を持った部族が、トランスコーカサス に帰ってきていたと考えられます。
最後にHapuroguroupG2aの多く見られる場所としてスペインのムルシア (Murcia)が挙げられます。ここの港湾都市 カルタヘナ (Cartagena)はフェニキア 人が地中海交易のために開いた場所です。HapuroguroupG2aがこの場所に多いことから分かることがあります。当然Dolmenが多く見つかります。
つまり、フェニキア 人の正体です。ブルガリア のVarna cultureで黄金と塩の交易をしていた、アフリカの角 (Horn of Afuric)からの海洋民部族達と、アナトリア からエーゲ海 、地中海に出て海洋民になったコーカサス の部族達です。ブルガリア を追われた時、アフリカの角 (Horn of Afuric)からの海洋民部族達は最初に北上して来た場所、レバントを地中海交易の拠点にしたと考えられます。同時に追われたコーカサス の海洋民部族達、すなわちHapuroguroupG2aの部族は、レバントのアフリカ部族と連帯しながら地中海を西に新たな拠点を作ったと考えます。当然西に伝播にしたDolmenには単独墓と共同墓が見つかります。
その後Dolmenは大西洋岸を北上、アイルランド 、イングランド 、ドイツなどに伝播していきます。
(20)Murcia com.
このまま続く
()黒海 大洪水の後; Eupedia
The Ain Sakhri lovers, from Ain Sakhri, near Bethleem (British Museum: 1958,1007.1 )Wikipedia
()Menhir in Ethiopia; wikipedia
()Late Cucuteni culture,w Ukraina ;c 3,800~3,600BC
The Language of GODDESS
(28)和久ノート(参照)
(1)Menhir(立石)at the village of Oveharovo,Haskovo;MEGALITHIC BULGARIA VAGABOND(参照) 重要です。
生名島メンヒル は同じルーツですね。