Varna necropolis 人骨のゲノム解析
(1)紀元前4,500年頃の、世界最古の金の宝飾品を含む、エリート男性の埋葬地の復元。 Wikipedia
Genetics
The elite male from Grave 43(c.4495BC)belongedto the paternal(Y-DNA)haplogroupT-M184 and the maternal(mtDNA)haplogroupU2.
Other male samples from the Varna necropolis belonged to the Y-DNA haplogroups I2a1, I2a2, G2a, T1a, E1b1b and R1b-V88
wikipedia
「Varna necropolis」人骨のゲノム解析 によると、地中海と北(北東)アフリカ海洋民のゲノムが大勢を占めていることが解かりました。詳しく個別のDNA haplogroupを見ていきます。これまで調べたコーカサス 部族の歴史や文化、さらには「共同納骨墓」(参照) を考慮に入れるとその全体像が理解出来るはずです。このことは、「墓としてのDolmenの拡散」を理解するうえの出発点になります。
先ずは二つのHapurogroupから見ていきます。なぜなら、黄金に囲まれて見付かった人骨には「kOTEKA(インドネシア語 ・ペニスケースのこと)」が副葬されていたからです。アフリカでペニスケース装着の風習が認められるのはSudanの一部族のみであること、Varna culture以前のバルカン半島 で特筆されるのは「Menhir & Stone-circle」の文化であることです。「Horn of Africa」には原始的な男根のMenhirから、北方ステップ地帯 にある「Kurgan stela(人面立石)」まで見つかります。北方ステップ地帯 までもの、人と文化の交流が認められます。
またこれらはmtDNA Mの東への拡散を証明することになります。後で詳しく触れましょう。
(2)Hapurogroup T-M184; wikipedia
(2)Hapurogroup E1b1b; wikipedia
(3)Horn of Africa; Reseachgate; wikipedia
Varna necropolis人骨のゲノムが分かったことにより、これまで様々な方法で試みてきた東ブルガリア のBC7,000年以後の歴史が、スッキリとまとまりました。この地域の歴史を創った部族の注目点は、[Horn of Africa]に有りました。Varna necropolisで黄金に囲まれて眠る人物のルーツです。T-M184とE1b1bのゲノムから検証していきましょう。
写真(2)(3)を見れば一目瞭然です。DjiboutiとSomaliaにはHapurogroup T-M184が多く、E1b1bはEritreaとEthiopia、DjiboutiとSomalia全てに色濃く分布します。Ethiopiaでは約58%の人がHapurogroupE1b1bを持っており、E1b1bの分岐はこの地域で起こったと考えられています。Hapurogroupの拡散に関しては、少し違った様子が見られます。
そもそもHorn of Afuricは数百の部族が争ったり、緩やかな協調したりして暮らす領域です。T-M184は紅海やインド洋に面した海岸地帯の部族が多く、E1b1bは内陸のEthiopiaなどに多い集団です。E1b1bは内陸を中心に北上しています。当時まだ湿潤だった北アフリカ 一帯に拡がっています。「Tassili-n-Ajjer」の岩絵やズールーの概念を発展させたのも彼らだと思います。もちろん海洋民の部族もいますから、北アフリカ 、地中海での交易にも参加しています。だからベルベル人 (Berber people)の多くがE1b1b、同下部ハプログループを持っています。
ただし最初にバルカン半島 にStonecircle &Menhir を築いたE1b1bグループはHorn of Afuricから北上した部族です。ベルベル人 は遅れてズールーの概念を発展させた後、北上します。
一方T-M184は本格的な海洋民に多いHapurogroupです。インド洋を航海したり、ペルシャ湾 に入り、Tigris-Euphrates riverを遡り西アジア に到達しています。紅海を北上してナイル川 から地中海に入っています。黒海 大洪水の後には黒海 に入り、DnieperやDonets riverまで遡上しています。Dnube(ドナウ川 )の遡上は早くからの交易だけでなく、北方ステップからの部族の到来時に、西北への移動、すなわち「Funnel beaker」の拡散にかかわったと考えます。Varna cultureにおいては塩と黄金の交易で富を築き、Varna necropolisでは黄金とともに葬られています。
T-M184の東への拡散はペニスケースを伴いましたが、同じ様に黄金の副葬品に見付かった「Mace・メイス(打撃用の武器)」も、T-M184の拡散した地域で見つかっています。「Horn of Africa」から東への海路(イラン、インドなど)、そしてBC5,000年紀のメイスがウクライナ で見つかっています。黒海 大洪水の後Doniester riverを越えて、アフリカの部族が築いた「Cucuteni-Trybillian culture」期のウクライナ です。エジプト南部・ヌビアの「King of Scorpion」のメイスについては、以前に書きました。ヌビア(Nubia)地域にはSudanも含まれます。
E1b1bについて、Eupediaに新しいゲノム解析 が発表されています。中期石器時代 にレバントに現れたHapurogroup E1b1bを持つ部族は、新石器時代 までにライ麦 などの穀物 栽培を初めて始めた形跡があるそうです。この時期、イランやアナトリア の人骨にはE1b1bは発見されないそうです。つまり、これまで穀物 栽培をバルカン半島 へ伝播させたのは西アジア やアナトリア の農民と言われてきましたが、穀物 栽培を始め、伝播させたのはHapurogroup E1b1bを持つ部族だと言うことです。そしてHapurogroup E1b1bの起源は紅海周辺ではないかと書かれていました。
はっきり言えば「Horn of Afuric」です。最近多くの科学雑誌 が、紅海を挟んだ対岸のサウジアラビア 西南部にBC7,000年以上前の住居痕が発見されたと報じています。まだ穀物 栽培は認められないので、「Horn of Afuric」からの拡散初期と考えるべきでしょう、レバントの遺跡と類似点があるそうです。
T-M184の海路・東への拡散をよく見ると、メソポタミア とインダス川 、そしてさらに北上して黄河 上流域に達しています。もちろんナイル川 は良く行き来する道です。彼らの良く現れる大河は、バルカン半島 北部・ドナウ川 に北方ステップの部族が現れ、その地を追われた後、やがて現れる四大文明 の場所と重なります。
黄金と共に発掘された人骨のmtDNA(母方ハプログループ)は「U2 」と発表されています。そのほかの人骨にも「I2a1」、「I2a2」のmtDNAが見つかっています。mtDNA」は文化を長く繋ぐDNA」で、その地域の基本的な成り立ちを語ってくれます。被征服地においても女性の移動は少なく、母から娘へと基層情報は引き継がれています。
mtDNA(母方ハプログループ)「U2 」はUからですから、出アフリカの基本CFからの分岐になります。
mtDNA(母方ハプログループ)「I2a1」、「I2a2」はI,出アフリカの移動は基本分岐Mです。
(4)mtDNA Hapuroguroup CF;Wikipedia
(5)mtDNA Hapuroguroup M; wikipedia
ここから考えていけば、よく理解できます。またその後のDNA移動について、理解しやすくなります。
日本の基本的な二つのクラスタ ーがMとNであることも付け加えておきます。
(6)Hapurogroup E-M96; Wikipedia
それとどうしてか、あまり書き込まれることのない、ナイル川 を北上してレバントに至るルートは、いつも検証してみることが必要です。地図で見える通り、地中海地域を通れば、北アフリカ だけでなく南西ヨーロッパへの近道になります。Hapuroguroup HVなどは北アフリカ で見つかっています。穀物 栽培の始まったレバントは、西アジア と一体の文化圏とみなした方が良く、地中海への入り口になります。写真(5)の西アジア に書かれているHapuroguroupsは一応検証すべきでしょう。私見 ですが今のところHapuroguroup H1, H2はジブラルタル海峡 を渡った後、イベリア半島 で誕生したと思います。隕石の衝突(BC12,000年頃)後、H1,H2とI2a1,I2a2は南北の避難場所で生き残ります。その位置が当然違っています。H1,H2はバスク など南西部に残り、I2a1は中央ヨーロッパ 北部,I2a2はアルプスやバルカン半島 で誕生しています。避難場所の違いは、それ以前の分布を反映しています。
それともう一つ、写真(5)には、フィリピン、韓国、日本などへの海上 ルートが必要です。もちろん,Horn of Afuricaからの沿岸ルート延長線です
(7)mtDNA Hapuroguroup U, Hを持つ「Iberomaurusian」;Wikipedi
25/23,000~11,000BC年頃の北アフリカ にHapuroguroupU は高頻度で現れます。さらにHapuroguroup U2はインドで高頻度です。Varna necropolis で黄金に囲まれて見付かった男性のmtDNA はHapuroguroup U2 です。この状況を理解するには、広大な部族の移動を考えなければいけません。
具体的には写真(6)に、「コーカサス を北上するルート」そして「Horn of Afuricからインド、南アジアへの海路」を付け加えることです。これは道ですから、この範囲を自由に動いています。そう考えることで、やっとこのすべての領域で起こったことの整合性が整います。そしてこの道の十字路は、写真(8)のLevant with Natufian regions だと考えます。 詳しく見ていきましょう
(8)A map of the Levant with Natufian regions across present-day Israel, Palestine, Jordan, and a long arm extending into Lebanon and Syria
Wikipedia
mtDNA Hapuroguroup U2
「Varna necropolis」で黄金に囲まれて発掘された人骨の、母方DNAはHapuroguroup U2 でした。このHapuroguroupを詳しく見ていきましょう、きっと多くのことを語ってくれるはずです。U2 への分岐に関しては、写真(5)が参考になります。アフリカの角 (Horn of Africa)から沿岸移動(海の道)で東南アジアさらに日本や太平洋諸島へと続くこの道の上で、mtDNA Hapuroguroup L3からmtDNA Hapuroguroup M、Nが生まれ、mtDNA Hapuroguroup NからはmtDNA Hapuroguroup R、そしてmtDNA Hapuroguroup RからmtDNA Hapuroguroup Uが誕生するからです。
アフリカ大陸から出ていくことのなかったLが、L3の形で出アフリカしたのもM, Nが分岐したのも約70,000年頃前とされているため、発生場所の議論は絶えないようです。合理的なところでは、M, Nは70,000~55,000年前頃の西アジア 、Rは70,000~55,000年前頃の西アジア からコーカサス の辺り、そしてUも46,000~33,000年頃前頃の西アジア からコーカサス でしょうか。そしてU2 です。U2 はバングラデシュ とインドで高頻度で現れることから、40,000年以上前にこの地で誕生したようです。バングラデシュ は後にインダス文明 が発展する土地で、インダス川 が重要な意味を持ちます。中央アジア 、ロシア、中国、アフガニスタン への伝播は、インダス川 上流からシルクロード の西端・カシュガル に至り、この十字路から広がったと思います。この古い時代から、このルートはすでに、人類の移動する道だったのです。同じ頃(40,000年前頃)U6はレヴァントからモロッコ に拡がっていますから、写真(4,5,6,7)を加えた「道」を人類は行き来していたと思います。そう考えるとレヴァント、南コーカサス 、西アジア 一帯はハブ的な領域であったと考えられます。
話をもとに戻して、Hapurogroup T-M184、「Varna necropolis」人骨のmtDNAがU2 であったことには、想像力を豊かにします。世界の海と大河を自由に航海する(写真2)海洋民はHorn of Afuricaからインダス川 を訪れて、この男性のDNAが作られたのではないか。もちろんU2 はバングラデシュ 、インド以外に、広く薄く拡がっていますから、
特定の個人に当てはまるわけがありません。ただHapurogroup T-M184、「Varna necropolis」で黄金と共に見つかった男性は、Horn of Afuricaにルーツを持つ海洋民で、ブルガリア Varnaの「黄金」と「塩」の交易で財を成した人物なのでしょう。
I2a1,I2a2(YDNA)
約6万年以前にアジア方面に出アフリカしたHapuroguroup CFは、分岐を重ねて約4億年前にコーカサス からロシア、東ヨーロッパにHapuroguroup Iとして現れます。(この頃の黒海 は今より小さな淡水湖で、道は大きく開いていました・参照 )
さらに東ヨーロッパでHapuroguroup I2が31,000~26,000年前頃に分岐し、中央・西ヨーロッパでさらにHapuroguroup I2aがこの後分岐します。写真(9)の分布頻度の高い南北の地域に挟まれている地域が、Hapuroguroup I2aの広まった地域だと考えています。
そしてこのI2aはI2a1とI2a2に大きく南北に分かれることになります。この分岐の時間軸は「Younger Dryas(12,900年前頃)」の始まりと重なります。つまり「隕石の衝突」を考えなければ歴史が繋がりません。これまでも「ズールーの神話」や「洞窟壁画」の中断とテーマの変化など、何度も書いてきました。奈良二月堂の「お水取り」や奈良五条「阿弥陀堂 の鬼走り」など日本の「火祭り」にも、同じテーマがあることを見てきました。
そこで、きっと世界にも同じテーマの「火祭り」があるのではないかと検索しました。
スペインにありました。それも「ズールーの神話」とほとんど同じです。即座に二つのことが明らかになりました。これまでも言われてきたことですが「イベリア半島 が隕石の衝突後の避難場所のひとつであったこと」、「イベリア半島 と西北アフリカ は同じ文化圏だったこと」です。
この祭りを詳しく見ていきましょう。
(9)スペイン サン・ファンの火祭りで焼かれる「オゲラス(Hougerasu)」;EXSENSES(参照1)、 (参照2)
サン・ファンの火祭り
6月19日、女神を選び、木とダンボー ルで人形を含む色んな世界観のオブジェ(オゲラス)を作り始める。初日から毎日、花火を打ち上げ、爆竹を破裂させ火花と大音量で街を包む。24日最終日、花火爆竹の後、一斉にオブジェ(オゲラス)に火を放つ。燃える人形の周りでは、人が7回飛び跳ねる。燃え盛るオブジェ(オゲラス)の周りに集まった人々に水をかける。(今では消防ポンプでの放水)
ズールーの神話(アフリカ創世の神話・マジシ・クネーネ)
邪悪な女神の攻撃が始まる。はるかかなたの平原で火が燃え上がった。恐ろしい騒音とともに彼女が通った、竜巻が巻き上がり彼女を追った。腐敗する肢体が山を作った。人間の窮状を見た女がやってきて、その子供達を保護するように訴えた。先祖たちは天の王女に伝える。王女はヴェールで覆うように雨を降らせる。水が赤い平原に降った。地球を清めた。
北アフリカ ではこのことの後で、人の命を思考することから、宇宙を子宮の中に持つ「天の王女」を中心とするズールーの哲学的概念が作られていきます。
また西ヨーロッパでは、雨が大地のバランスを保ったことから、平衡の表象(VなどのCheveron)が生まれ、雨の女神が生み出される。
そして後に概念と表象はバルカン半島 で出会います。このことは「女神たちの表象」の章で詳しく書いてきました。
(10)スペイン サン・ファンの火祭りで焼かれる「オゲラス(Hougerasu)」;朝日新聞デジタル
隕石の衝突はBC12,900年頃に北米・五大湖 近くに起こり、分解した破片は自転により、ヨーロッパ中心部を西から東へと焼き尽くしたといわれています。写真(11)IやI2aの途切れた中心部です。
(11)Hapurogroup I; wikipedia
(12)I2a Hapurogroup Since the Last Ice Age; Plamstreetmusic(U-tube)
南に逃れ生き残ったYDNAHapuroguroup I2aを持つ部族は、地中海北岸の海岸地域に集まります。狩猟採集民だった彼らの獲物となる動物は、数を減らしていきます。そこで彼らは必然的に、魚や貝などの海産物を主食とするようになります。海の暮らしに慣れて海洋民となっていったと考えます。
上述したようにこの頃の地中海地域には、Horn of AfuricからのHapurogroup T-M184、Hapurogroup E1b1bを持つ部族がレバントをハブとして活動していました。やがてHapuroguroup I2a2を持ち海洋民族となった部族のもとに、彼らの活動によりレバントのナトーフ文化(BC12,500~BC9,000年頃)から土器製作が伝わってきます。ナトーフ文化文化では「Impressed ware(押圧土器)」と言って、土器の表面に硬いものを押し付けることによって文様(私たちの概念の文様ではなく、内容物や持主を示す目印だったと考えます)を付けていました。海洋民となっていたHapuroguroup I2a2の部族は、彼らが食料にしていた「Cardium edulis」と言う貝の殻を押圧します(まだ目印としての文様だと考えます)。エーゲ海 周辺に拡がったこの土器文化を「Cardium pottery culture(BC6,400~BC5,500年頃)」と呼びます。やがて地中海全域に広がるのですが、南仏からサルデーニャ島 で始まった、同じく「Cardium pottery culture」と呼ばれる土器文化は明らかにこれまでの文化とは違っています。文様が概念を示すようになります。文様の概念に大きな飛躍が認められます。
隕石の衝突後、雨によって大地が甦り、獲物となる動物も戻ってきます。その様子から、雨によって大地のバランスがとれ調和した状態を示す「Cheveron(VやXなど)」が生まれ、「雨の女神」の概念が生まれます。やがて両社は結び付き「雨による平衡と豊穣の女神」になります。この概念は南仏やサルデーニャ島 の海洋民にも伝播します。この時「Cardium pottery culture」の「Cardium edulis(ザルガイ)」の貝殻文がすでに知られていました。南仏やサルデーニャ島 の海洋民は身近にある「Pecten Maxinus(ホタテ貝)」に「雨による平衡と豊穣の女神」の表象をみつけ、女神のシンボルにしました。(ビーナスの誕生のホタテ貝にはこの概念が宿っています、巡礼者を示すホタテ貝も同様です)
開口部のギザギザは「Chevron平衡・vvvvv」、表面の斜線は雨、そして「△x2」の耳は△・女神 x2・平衡(平衡の女神)となります。
そしてホタテ貝の概念は地中海地域に広がります。後のクレタ島 ・ミノア文明の「諸刃の斧」や「羽を広げた蝶」などの表象も「雨による平衡と豊穣の女神」を表しています。同じく「△x2」の幾何学 的な文様が後期の「Cardium pottery 」に見られます。
黒海 大洪水の後、ブルガリア の「Karanovo culture」に「△x2の女神」が現れます。つまりHapuroguroup I2a2を持つ海洋民が、Horn of AfuricからのHapurogroup T-M184、Hapurogroup E1b1bを持つ部族と共に、Varnaを拠点に塩と黄金の交易を行うようになっていたことが分かります。「Varna necropolis」の人骨ゲノム解析 でHapuroguroup I2a2が見つかった理由になります。
Hapuroguroup I2a1は北に非難したHapuroguroup I2aから分岐しました。Hapuroguroup I2a2と同じ様に「Varna necropolis」の人骨から見つかっています。
このことは、写真(2)の様にHapurogroup T-M184の交易の広さで説明できると思います。彼らは海だけでなく、大きな河川も遡っています。ドナウ川 も航海していました。Hapuroguroup I2a2とHapuroguroup I2a1はどこかで出会い、行動を共にしたのでしょう。
また次に説明する「YDNA Hapuroguroup G2a」と同じように、母方の文化で育つ父が他部族の子供は、父のHapuroguroup を継承していくことになります。
G2a(YDNA)
このまま続く
コーカサス の部族
The Ain Sakhri lovers, from Ain Sakhri, near Bethleem (British Museum: 1958,1007.1 )Wikipedia
()Menhir in Ethiopia; wikipedia
()Late Cucuteni culture,w Ukraina ;c 3,800~3,600BC
The Language of GODDESS
(28)和久ノート(参照)
(1)Menhir(立石)at the village of Oveharovo,Haskovo;MEGALITHIC BULGARIA VAGABOND(参照) 重要です。
生名島メンヒル は同じルーツですね。