形而下の文化史

表象文化史・ジュエリー文化史・装飾文化史

 

Megalithic・巨石構造物 (3)・Varna Provice

From Varna Proviceーバルナ地域のMegalithic

 

これまで不思議に思っていました。これまで読んだ[Varna culture]の記事では、多量の黄金が見つかったのは「Varna Necropolith」の「土葬墓」の中でした。一方、これより後に金冶金技術を持つ部族が現れる場所では、「土葬墓」は見られません。そして彼らのY染色体は「ハプログループG」です。明らかにコーカサス地方の部族です。「Varna Necropolith」の「土葬墓」の埋葬者は、黄金の「ペニスサック」を着けていることもあります。そして「壷(王女の子宮)」を枕元に副葬しています。「土葬墓」、「ペニスサック」、「壷の副葬」はアフリカの部族の特徴です。コーカサス地方の部族は「土葬」はしませんし、「集団墓」がほとんどです。

黒海大洪水の後(BC4,550年頃)、冶金技術を持つにコーカサス地方の部族が「Varna」に現れ、やがて既に居たアフリカの部族(Karanovo culture 後に Vinca culture の部族)と協力関係を築いたと考えられるのですが、コーカサス地方の部族の墓所を書いている記事には、全く出会いませんでした。

観光情報を読んで、やっと長い時間軸に整合性のある答えを見つけました。

古来より「神聖な場所」とされてきた。「Pobiti Kamani(石の砂漠)」です。「Varna」の近くで、ブルガリア唯一の砂漠です。

 

 

(1)Nailed rocks,The Shores Tsonevo Dam;Tripdviisor

 

「Varna 」近くの「Tsonevoダム」の湖畔に、石灰岩が露出したサイトがあります。円柱錘などいろいろな形の石灰岩が乱立しています。この岩肌に四角形の穴が穿たれています。同じ様に「Quarry of Beloslav・ヴェロスラフ・採石場」では、今でも、様々な形の石灰石の柱が見られます。

おそらく、これが「Pobiti Kamaniの円柱」に先立つ、コーカサスの部族の墓穴だと思います。

そしてやがて彼らは、この円錐形の石灰岩を加工し始めます。輪切りにして、そのままを土台に、その上に中空の石を重ね、最後に四角形の穴を穿った円柱を置きます。外壁を上から下に筋状に削り整え、出来上がったのは古い郵便ポストの様な石柱です。

(「Pobiti Kamani」で画像を検索すれば、有料写真などに細かい成形の痕が見られます。)

 

(2)Pobiti Kamaniの円柱群;Wikipedia

 

(3)Jauney of a Nomadic Family

 

これが探していたコーカサスの部族の「納骨塔」だと考えます。何故ならこの後の時代に、彼らはこの「石に穿った納骨穴」を部族の慣習として続けているからです。ここでは加工しやすい石灰岩であったため、手の込んだ構造物にしましたが、硬い石の場所では写真(1)の様な穴のみになります。

「納骨塔」と言いました。何故ならこれら穴は埋葬するには入口が小さいのです。

ここで彼らが信じていた「冥界の女神・イシュタル」の成り立ちを思い出します。上部マグダレニアン期の「雨による平衡と豊穣の女神」は、多くの部族民が死んだ「黒海大洪水」の後、「冥界の女神」の神格を付与されます。そして「禿鷹」の姿で表されるのです。コーカサスでは「死」は「禿鷹」と結びついたのです。つまり「鳥葬」の存在が見えてきます。

また穴の開口部は四辺形をしています。これは上部マグダレニアン期から「輝く雨」の表象になって、骨に彫られた「雨の女神」の絵の中に、上下に連なって描かれたいます。。今でも英語では「天気雨」のことを「ダイヤモンドの雨」と表現されることがあります。「雨による平衡と豊穣の女神」が伝播したコーカサスでは、習合して「イシュタル」になっても、「女神の表象」として用いられます。ズールーの概念「王女の子宮」を表わす「アーチ型」との違いは、この後続いていくことになります。日本の「横穴墓」でも開口部の形は「四辺形」か「アーチ型」が、単独あるいは混在して現れます。居住民の部族構成が解ります。

この「納骨塔」は「集合墓」です。数からみて家族毎に納められたのではないでしょうか。コーカサスの部族の死生観では、死後に魂は「イシュタルの舟」に乗り「冥界」へ向かいます。遺骨は丁寧に納めればよく、そこには魂はありません。死後も家族とともにあり、家族や現生の部族と神々の間をとりなして、現生の部族の生命の発展を助けるズールーの概念とは大きく違います。

 

(4)Jauney of a Nomadic Family

ここは砂漠です。特別の施設はいりません。石の構造物が見えています。石で周りを取り囲むだけで十分だったのでしょう。周りに鳥の視界を遮るものもありません。山頂の岩場も必要ないのです。ここで「鳥葬」も行われていたようです。

 

(5)Bird watching and culturai tour from Varna

溝の彫られた石板

この溝付き石板は「Varna 」で130x107~35x45cmの大きさで見つかっています。硬質の石板に溝をつけたり、写真(9)右上の「丸石のすりこぎ」を作ったり、石材の加工技術に優れた部族であることが解ります。おそらく金属鉱石の採掘で培われたものと考えます。(参照)時代は金石併用の銅器時代でしたので、南部イスラエルの金鉱山で見つかっている「硬質の砂を練りこんだ銅工具」がここでも使用されたものと思います。工具や金製品の製作には「鋳造・Casting」が石の鋳型を用いて行われてています。BC4,500年頃のことです。

 

(6)Photograph by the auther

 

(7)Photograph by the auther

(8)Photograph by the auther

 

採掘した金鉱石は小さく砕き、丸石を転がす「すりこぎ」でさらに細かくして石板に移し、水を流すことで砂金状の金を集めたのではないでしょうか。写真(6)や(7)にある左上の浅い穴は集めた砂金を入れておくところでしょうか。後にこの部族が作る石板にも用途不明のこの穴が認められます。

 

(9)Photograph by Ppavlov                  

右上に「丸玉すりこぎ」があります。

 

 

以上写真は下記の論文PDFより抜粋 



BC4,000年頃「Cernavoda culture」の部族のドナウ川流域への侵入を受けて、西にいた部族は「Funnel beake potteryr」を発展させながらヨーロッパ北部に移動し、「金属製の渦巻装身具」を作る部族はスイス、オーストリア、北イタリアの山間部に逃げ込みます。一方バルカン半島北部の中部より東にいた、[コーカサスの部族]、「Vinca culture」,「Karanovo culture」などの部族はブルガリア東南部に移動します。

(5)BrugariaのMenhirs;MUZEO VIRTUAL ARKEOTIK=VITORIA=GASTEIZ

 

この地で「墓としての」Megalithicが始まります。それぞれの部族はアイデンティティーを維持しながら、影響しあいMegalithicを発展させていきます。

 

最後に、何の証拠もなく、考えることがあります。

この時代の人々にとって、装身具とは何だろう?  

黄金の価値とは何だろう?

ひょっとしたら、死後も現世と関わり続けると考える部族の副葬品としての価値なのかもしれません。死後、冥界に行くと信じるコーカサスの部族は、副葬品は有りません。土葬して身体を残すこともありません。彼らにとって黄金は塩と同じ、単なる交易品のようです。

 

 

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