形而下の文化史

表象文化史・ジュエリー文化史・装飾文化史

 

Megalithic・巨石構造物 (5)・墓としてのDOLMEN

 

Dolmen

 

(1)Dolmen, near the village of Hlyabovo, Haskovo,Bulgaria; Wikipedia

 

(9)Magura Cave; BUL stck(参照)

 

[Cerenavoda culture(4,000~3,500BC年頃)の部族に追われ、ブルガリア南東部に移動した「Vinca culture」(参照)の部族は、コーカスの部族が金採掘を始めたHaskovo州の東部にある「Hlyabovo Village」の周辺地域、そしてそこから南方Sakar山脈の北麓に至る領域に多くの[墓としてのDolmen」を築きます。そこに残された[墓としてのDolmen」には色々なスタイルがあり、その発達過程が見られます。

そしてやっと探していた最初期の[墓としてのDolmen」をHlyabovoの近くに見つけました。この写真(1)のDolmenは大きな岩を三枚重ね、そこに王女の子宮を表す「アーチ型」(参照)の穴を彫っています。とてつもない大変多くの労力をかけています。

しかしこれで「巨石構造物(2)」(参照)からの概念と遺物の時間軸が繋がり、[墓としてのDolmen」の形の意味が理解できます。

天の王女の子宮表象を人形にした岩絵が多く描かれたMagura洞窟に至り、アーチ型の入口を持つ洞窟(洞窟入り口は明らかに加工されています)は「もう一つの王女の子宮宇宙」だとした概念が完成したのだと考えます。この頃はまだ、「天の王女の子宮」を表す「壺」を副葬して土葬することで「天の王女の子宮の中で眠る」ことを表現していました。しかし多くの巨石が存在するブルガリア南東部への移動は、この概念をそのまま表現するようになります。

最初の[墓としてのDolmen」は「天の王女の子宮を表す人工的な洞窟」として生まれました。

 

写真(1)を見ていたら、大変な見落としをしていることに気付きました。アーチの右下を見てください。明確に内にカーブして彫られています。これは「アーチ型」と言うより「天の王女の子宮表象型」なのでした。

 

(11)「Magura cave」の岩絵・ズールーの概念・天の王女の子宮表象を人形にした岩絵;和久ノート(参照)

 

そして最後に天井岩を載せます。これも大変な作業です。ピラミッドの石積の様に側面にスロープを作り、引き上げたと思います。写真(4)の天井岩の傾きは小石を積み上げた左スロープの傾斜と同じです。ブルガリア、フランス、アイルランドのDolmenを見ると、盛り土、小石のマウンドについては、様々な発達状況を考慮に入れて、柔軟で慎重な精査が必要です。支石の地下土壙墓、地下石棺・石室に埋葬されている場合は、支石はそれだけで「天の王女の子宮表象」となり、「洞窟」をより表象する「土盛、石積」は必要なかった可能性もあります。

 

 

このまま続く

 

(2))Dolmen at Hlyabovo; Dilmen Bulgaria

 

岩を彫る大変な労力を考えて、次に石板を組み合わせて築くDolmenが考え出されたと思います。しかし、この典型的なDolmenにしても、表象しているのは「天の王女の子宮としての洞窟」です。大切なのは洞窟を表す「天の王女の子宮表象型アーチ」を持つ正面の岩です。ただ作る過程で「支石墓」の石組が現れます。正面と背後の石板を挟み込むように、側面の石板を倒しかけます。平行に立てかけたのでは、横からの力に崩れやすくなります。この時点では、「支石」の形は、純粋に構造力学的なものであったと思います。

 

(3))Dolmen at Hlyabovo; Dilmen Bulgaria

 

Dolmenは人一人をそのまま運び込まなくてはいけません。ですから最も小さなものでも写真(6)の大きさで、大きなものはアーチの高さが人の背丈になります。つまり、小さなDolmenは、正面の「アーチを持つ岩」を省略していったのではないでしょうか。その過程で「鳥居型」の「支石」そのものを「天の王女の子宮表象」と見なす様になっていったと考えるのです。写真(4,5,6)の正面下には小石を積み上げた形跡が見えます。また写真(9)には前面に細長い岩を置いています。岩や小石によって正面を塞いだものと思われます。

 

(4)Dolmen at Hlyabovo; Dilmen Bulgaria

 

フランス、RascasolのDolmenを見ても、良い粘土質の土が得られなく、石の多いところでは石積みマウンドのDolmenが作られているようです。マウンドの有り無し、土か石の問題はのもう少し多くのサンプルを見る必要があります。

これと同じ石積みマウンドのDolmenで、アーチを持つ正面石が半分に折れたものを有料写真サイトで見ました。アーチを持つ正面石の有無は慎重に判断しなくてはいけません。大変な作業となるアーチを穿つため、薄い石板材を使うことが多かったようです。

 

(5)Dolmen at North Strandzh; VICI

フロントに小石の積み上げが見られます。この時点では、「天の王女の子宮表象」としてのアーチの意味合いは「鳥居型支石」に引き継がれたと考えます。

 

(6)Dolmen、Village of Levka, Sakar Mountain; Joint Activities、Green Balkan NGO, Svilengrad Histury Museum, Assciacion SakarNational Park

 

複数室をもつDolmem

写真(10)は最初から「石棺墓」の様に石組がされています。しかしよく見ると土に埋まった奥の面にアーチ型が見られます。これもDolmennで「天の王女の子宮」を表していることがわかります。巨大な石棺はこうしてシンプルな方向に発展したDolmenなのかもしれません。

 

(7)Dolmen of  Strandzha Mountain, South Black Sea Coast; BgNature Trip  

 

複数室をもつDolmenは片方の側面と間仕切りの石板にアーチ型が穿たれています。そして上部を支石の石組にしています。見方によってはDolmenの前方に新しいDolmenを継ぎ足したようにも見えます。思うにこうしてやがて一つの支石に複数室を持つ巨大なDolmenが築かれたと思います。ただこの場合は後の埋葬に備えて、側面を開きやすいようにしておくひつようがあります。写真(9)は側面が組み込まれない石積になっています。これが上部に来れば、「石棺墓」になります。

 

(8)三室に分かれたDolmen; Batgacs Balgarska polyana 6 Zhelezino,Haskovo; Novo Scriptorium

 

 

(9)二室にわかれたDolmen at Hlyabovo; VAGABOND

このまま続く

 

(10)二室にわかれたDolmen at Hlyabovo; VAGABOND

 

Dolmenは人一人をそのまま運び込まなくてはいけません。ですから最も小さなものでも写真(8)の大きさで、大きなものはアーチの高さが人の背丈になります。つまり、小さなDolmenは、正面の「アーチを持つ岩」を省略していったのではないでしょうか。その過程で「鳥居型」の「支石」そのものを「天の王女の子宮表象」と見なす様になっていったと考えるのです。写真(4,5,8)の正面下には小石を積み上げた形跡が見えます。また写真(6)には前面に細長い岩を置いています。岩や小石によって正面を塞いだものと思われます。

 

Cromlech

北アフリカから初めてMegalithicを伴って北上してきた部族は、石像建造物(1)で検証してきたように、安産多産表象として男根(Menhir)と子宮(Stonecircle)を持っていました。しかしBulgaria南東部に多くの部族が密集する中で多産の「子宮」を表す「Stonecircle」は「天の王女の子宮」に変質したようです。「Vinca culture」の部族の影響を受け入れながらも、「Stonecircle」にこだわり続けています。「天の王女の子宮の中で眠る」は「Stonecircleの中で眠る」で表象されています。埋葬はこれまでの「土壙墓」や「王女の子宮」疑念をより表現したい「石棺墓」がつかわれています。この概念はミケーネのなどに引き継がれていきます。

 

(11)Chromleh of Dolni Glavanak village,Haskovo; LDNEST.com

 

中心部は石棺墓です。

 

(12)Chromleh of Dolni Glavanak village,Haskovo; NEW THRACIAN GOLD

 

石の形が、大雑把に台形に成形されているようです。 支石の表象が、ストーンサークルを大切にしていた部族に浸透したのでしょうか。これで、サークルは「天の王女の子宮」を表すことになります。コーカサスの部族の「鳥葬複合施設のNitch]と同じ表現です。

この様にブルガリア南東部で誕生して発展した、多くの部族のMegalithuc, とりわけDolmenは様々な形式を待ちます。これから世界に現れるMegalithuc, とりわけ「支石墓」との関係をこれから見ていくことになります。私が思うに、ほとんどのMegalithucの原型はブルガリア南東部で見られます。

そして忘れてはいけないことは、黒海大洪水の後でいち早くブルガリア東部に文化を開いたのは「Karanovo culture」であったことです。彼らは地中海の海洋民です。「Cardium culture」の部像です。

 

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