)黒海大洪水の後の女神達
黒海大洪水の後に「Starcevo culture(Danubian culture)」がどのように変化したのかを説明する記事に出会いません。いきなり写真(26)の文化区分が現れます。歴史は文化区分のコマ送りでは説明できません。コマ送りの間を丁寧に調べるべきです。古来から時の権力は都合の悪い真実をこのコマ送りの間に隠します。写真(25)は黒海大洪水前の「Starcevo culture(Danubian culture)」が洪水の頃に、また洪水をきっかけにどの様に変化し、新しい文化が生まれてきたのかを示しています。
(25)黒海大洪水の後の変化
東側の変化は比較的解り易いです。洪水で手薄となった「Bug-Dniester culture」の領域に「Starcevo culture(Danubian culture)」東領域にいた部族はDniester riverを越えて北上し「Cucuteni-Trybillian culture」の大集落を作ります。そうして手薄になったブルガリア、ルーマニアの領域には、洪水で開けたボスポラス海峡を抜けて「Cardium pottery culture」の地中海海洋民が、「二枚貝の雨の女神」を伴って現れます。
「Starcevo culture(Danubian culture)」西領域には「ズールーの概念・天の王女の子宮」表象を持った北アフリカの部族が北上して来ます。私の推測ではリビアの高地にいた部族が、遅れて始まった砂漠化により北上したと考えています。写真(27)で分かるように、この部族は険しい山岳地帯を北上しています。アフリカ高地での牧畜民だと思います。「ジブリ(Ghibli)」とはシリアの高地から地中海に吹く熱風です。彼らの故地は砂漠化しました。そして、「天の王女の子宮ポーズ」は隣国エジプト・ナカダ文化にも現れています。
「Vinca culture」の文化が飛躍的に伸びるのは、この文化に同じ山岳民族で農耕牧畜、冶金技術を持ったコーカサスの部族が融合してからのことで、もう少し後になります。
最初は「Starcevo culture(Danubian culture)」西領域の部族と融合していったと考えます。ただMagura caveの岩絵を見ると、かなり優位な状態にあったと推測します。
私は,ドナウ川下流域の黒海大洪水直後の状態は、「Starcevo culture」と「Karanovo culture」に「Danubian culture」が文化的に分割したとイメージしています。
「二枚貝の雨の女神」と「天の王女の子宮」表象の違いになっています。
Magura caveの「王女の子宮ポーズ」をした「二枚貝の雨の女神」はその影響しあう境界線で、優位に立った「王女の子宮」概念の現れだと解釈しています。
そしてやがて次の女神が現れます。
(26)黒海大洪水の後の変化
(27)Vinca culture wikipedia
「Starcevo culture(Danubian culture)」西領域部族と「王女の子宮」概念の強い、新しい北アフリカ部族の融合した領域は、こちらのほうが良く表していると考えます。
(28)和久ノート