The Sioni cultural complex
Shulaveri-Shomu cultureとKura-Arsxes cultureを繋ぐ文化
(1)Kura-Arsxes culture
(2)Shulaveri-Shomu culture
「ノアの箱舟」を想起する「Shulaveri-Shomu culture」は確かにアララト平野にも拡がっています。写真(2)で確認してください。そして写真(1)の「Kura-Arsxes culture」は「Shulaveri-Shomu culture」から拡散したことを証明するのが、写真(1)の「Kura-Arsxes culture」の中心部に引かれた黒い線、つまり「sioni culture」の存在です。洪水の引き始めたトランスコーカサスの中心領域に拡がります。残された遺物の連続性などからも、このことは証明されています。
そのうえで私が興味を持つのは、「sioni culture」の時代の「冶金技術を持つ部族」の移動です。彼らの金属鉱床を求めた足跡を辿ります。銅器時代に始まり青銅器時代に至ります。
「sioni culture」の部族達と伴に、トランスコーカサスの中心領域に降り立った「冶金技術を持つ部族」が、金鉱床を求めて目指した先は、コーカサス山脈であったはずです。そして、コーカサス山脈の西端に黄金文化は栄えることになります。「Maykop culture(c.BC3700~BC3000)」です。人骨のDNA鑑定などからも「sioni culture」の部族達と同じ遺伝子を持つ部族であったことは、近年証明されています。
しかし、「sioni culture」から「Kura-Arsxes culture」への移行はBC4000頃から始まるのですが、「Maykop culture(c.BC3700~BC3000)」は数百年遅れて始まります。そして、「Kura-Arsxes culture」とはかなり違った文化を持っています。
このことから次のような推論が成り立ちます。
(3)Wikipedia
(4)テレク川(Tergi) Wikipedia
彼らが降り立ったトランスコーカサスの中心領域からコーカサス山脈内部への移動は、テレク川を辿ったのではないでしょうか。
私がそのように考える第一の理由は次の事柄です。
コーカサス山脈の北では馬を狩猟して食べる文化「Khvalinsk culture BC5000年頃~」から、馬の飼育から騎馬の文化「Sredny Stog culture BC4,500~3500年頃」に移り変わり始めていました。そしてその頃突然、銅器時代が始まります。冶金技術の発達には長い時間がかかります。このことから外部からの伝播を考えます。
テレク川(Tergi)は写真(4)に見るように、ジョージア北部のカズベク山から北オセチア自治共和国を北に流れ、コーカサス山脈北麓を東にカスピ海まで流れています。
箱舟「Shomu culture」を引き継いだ「Layra-Tepe cultur(BC4350~4000年頃)」の始まりと同じ頃、金属冶金技術を持つ部族がテレク川(Tergi)に分け入ったとしたら、コーカサス山脈の北への銅器文化の伝播は、時間的に整合性があります。
そしてもう一つ、銅器(硬い砂を混ぜた銅器)を用いた石の切り出し技術です。北オセチアやイングーシには、石を切り出し石を積む伝統文化が色濃く残っています。この道具は南イスラエルの古代金鉱床からも見つかっています。
(82)チェチェン・イングーシ共和国(北オセチア共和国東隣)
秘宝・草原のシルクロード 並河萬里写真集
次に、この後の石を切り出し石を積む文化の展開をコーカサス山脈に見つけていきます。(参照)
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