形而下の文化史

表象文化史・ジュエリー文化史・装飾文化史

 

特別編 日本のゴルゴン  唐古・鍵遺跡 (2)

  埼玉県の古墳

 

 

(9)三波川変成帯の岩石、大鹿村中央構造線博物館

 

三波川編成帯の上には弥生時代の銅鉱山がありました。和歌山から紀ノ川を遡れば奈良五条そして奈良盆地へと至ります。弥生人の上陸地点の一つです。さらに三波川編成帯は伊勢大社から豊川、八ヶ岳に伸びています。そして最後に埼玉県の東秩父に現れています。

弥生時代奈良盆地は、藤田三郎氏の著書「唐古・鍵遺跡」などでうかがい知ることができますが、少々複雑な様相を呈しています。ところが埼玉県荒川流域の弥生文化は、広い平野に分かりやすく現れて、古墳時代への流れが地図上で理解できます。弥生時代から古墳時代への大きな変化は、地域差はあるものの同じように変化したものと考え、埼玉県荒川流域に弥生人の環濠集落が出現した時から見ていきましょう。ゴルゴンが描かれた唐古・鍵遺跡と4世紀の奈良盆地を理解する良い道しるべが得られると考えます。

 

(10)和久ノート  埼玉県の古墳

 

イタリアでは古代人骨の遺伝子検査が進み、北イタリア、エトルリアサルディニアシチリアの古代ゲノムが共通していることが解りました。これでやっと埼玉県の「吉見百傑」の謎が解けました。同時に、奈良盆地にやってきた弥生人が3グループに分かれて居住した理由も理解できました。

写真(10)の下方から荒川を遡って弥生人の部族達はやって来ます。荒川中流域には縄文人の大集落があったため、彼らは現在の和光市に環濠集落を築き稲作を始めました。午王山遺跡にあたります。そして奈良盆地では区分けして居住したのですが、冶金技術を持つ部族は銅鉱脈を求めて東秩父方向に北上しています。銅鉱脈までの距離が長いため、冶金技術を持つ部族と稲作をする部族は分かれて住むことになったようです。墓制の違いに表れています。

環濠集落の東南には方形周溝墓跡が見つかっています。方形は「輝く雨」を表し、「雨による平衡の女神」であり「冥界の女神」であるイシュタルに導かれて冥界に平衡(安住)することを願う形です。一方、冶金技術を持つ部族はまもなく円墳(円は雨粒で方形と同じ意味合いがあります。)を築き始めます。最初は墳丘墓(クルガン)だったと考えます。私の知る限りでは、墳丘墓(クルガン)が最初に築かれたのはコーカサス地方の「Leyla-Tepe culture」(参照)だと思います。銅器時代から青銅器時代の文化で「Maykop culture」に先行しました。「Maykop culture」でも墳丘墓(クルガン)は作られています。冶金技術を持つ部族が定住して富を蓄えると、首長の墳丘墓(クルガン)が現れているようです。さらに権力を持つと円墳が現れるのです。

埼玉でも円墳が築かれ始めます。冶金技術を持つ部族が富と権力を持った証明になると考えます。

そして、「前方後円墳」が現れて古墳時代となります。時代の便宜的な呼び名が変わっても文化は一貫して流れているだけです。ただ「前方後円墳」の出現は冶金技術を持つ部族が、環濠集落の部族や縄文人をまとめた権力体制を作り上げた証明になります。何故なら、「方形周溝墓」に「円墳」を乗せると「前方後円墳」になるからです。中心は石室のある円墳部分です。なお全国には「円墳」と「方形周溝墓」の様々な組み合わせ方の古墳が存在しています。全てを統べるという概念の元、色々試行錯誤したようです。

古墳時代に入ってなお「円墳」は埼玉古墳群などにも築かれています。冶金技術を持つ部族にとって「円墳」は部族のアイデンティティーなのでしょう。「前方後円墳」が広がる中、あえて「円墳」に眠ることを望んだとしか考えられません。

 

(11)武蔵野陵  トラベルjp

 

(12)エトルリアの円墳群  THEETRUSCANS  Mario toreri Thames&Hadoson

 

 

(13)吉見百傑遺跡 Wikipedia

 

 

(14)シチリア島パターリカの岸壁墓地遺跡 世界遺産オンラインガイド

 

(15)シチリア島パターリカの岸壁墓地遺跡   Wikipedia

 

吉見百傑とパターリカの岸壁墓地が同じ様な作りである事は、洞窟の入り口につけられた段差を見て頂ければ分かります。吉見百傑ではこの段差に緑泥片岩の蓋がはめられていたそうです。やはり緑の変成岩にこだわった冶金技術を持つ部族であることが解ります。城の石垣にも象徴的に用いられていることを考えると、現代にいたる家柄という身分概念の根底にも冶金技術を持つ部族とそうでない部族の間には根深い違いが意識されているように思えます。江戸時代に顕著になった身分制度はこの時代から続く意識が分かりやすく現れたものだと思います。

パターリカの岸壁墓地があるシチリア島シラクサも鉱物資源に恵まれた土地であったことは写真(8)で確認していただけます。

 

(16)横穴墓の分布 Y-rekitan八幡ブログ 出典Digital Neus Enable

 

写真(9)と見比べてください。古墳時代後期(6世紀後半)船に乗ってやってきた横穴墓を築く部族の分布を見れば、面白いことに気付きます。変成帯ラインとその周辺には横穴墓は築かれていません。古墳時代も後期になれば弥生時代に来ていた部族は各地の豪族となり、大和豪族を中心に連合体が作られていた頃です。彼らはそれ以外の地方に住み着き、地方豪族いわゆる大和王権時代の「土豪」になったと考えられます。

では、彼らはどこからやって来たのでしょうか。埼玉県の吉見百傑を見れば、弥生人の地方豪族に受け入れられたことが分かるのです。

世界の横穴墓分布を調べましょう。

 

(17)Maykop culture  Dolmen(BC3,700~BC3,000年頃(参照)  Wikiwand 

 

結論から入ります。写真(17)を見れば一目瞭然です。これから現れてくる岩に掘った横穴墓と同じ作りです。コーカサス山脈のMaykop cultureから始まります。石造構造物の「Dolmen」と呼ばれていますが、ピラミッド、ストーンサークル、鳥居など世界の石造建築物の原型が多く見つかります。(Maykop cultureとエトルリアで世界の石造構造物の原型は揃います)中には飛鳥古墳の石舞台と同じで盛り土がされていた可能性はあります。クルガンはすでに築かれてていたからです。しかし今は確かめることができません。そして、コーカサス諸語と呼ばれる言語が多数あるように、「墓」としての 「Dolmen」にも様々な形があります。正面に小さな穴を穿った作りの部族は、明らかに遺骨だけを納めていたと思われます。前段階では「鳥葬」が考えられます。イシュタルは「ハゲタカ」で表象されることがあります。メソポタミアには「ハゲタカの碑」が戦勝記念碑として建っています。「勝利の女神」、「冥界の女神」はいずれもイシュタルの神性の一部です。

そしてこの後、岩窟墓(岩に彫られた横穴墓)が現れる場所を見ていきましょう。北のYamuna cultuerの侵入に追われて、(ロシアの侵入と同じ)世界に散らばっていった「石を切り、石を積む」コーカサス部族の流れが見えるはずです。

 東京大学総合研究博物館のSteplan Steingraher氏の研究によるものです。

エトルリア小アジア(リュキア、カリア、パフラゴニア、パフラ)、パレスチナアナトリア東部(ウラルトゥ)、イランとイラクの国境、古代ペルシャペルセポリス周辺)、サウジアラビアのヘグラ、エジプト(ベニ、ハッサン)、石窟寺院としてインド、中国

写真(15)シチリア島パターリカなど漏れているところもありますが、大きな流れは見えます。

 

(18)ハプログループJ  Wikipedia

 

エトルリア,シチリア島パターリカなどハプログループGと伴に西に移動したグループもいますが、コーカサス地方にいたハプログループJ  の大半は南下しています。イラン、メソポタミア、エジプト、インドなどに移動して岩窟墓(岩に彫られた横穴墓)から石窟寺院・神殿に文化を発展させます。これらの地域へは黒海大洪水後に続き、コーカサス文化の第二波になりました。

またカルタゴイベリア半島北アフリカ沿岸を含むハプログループJ の広がりは、フェニキア人がコーカサス地方にいた部族だったことを示唆しています。同じコーカサス地方にいた部族のエトルリア人と盛んな交易をしたこと、ポエニ戦争でインドヨーロッパ語族のローマ帝国と烈しく対立したことの根本的な理由が見えてきます。

インドヨーロッパ語族のさらなる南下は「海の民」を生むことになります。「海の民」の研究も進み、今ではその構成部族が分かってきています。エトルリア、リュキア、サルディーニャシチリア、ミケーネ文明の部族達です。つまりコーカサスで「Yamuna culture」の部族に追われた「Maykop culture」の部族達で地中海北岸にいた部族です。

ハプログループJ  はインド以東へは拡散していません。地中海東岸や南岸の同部族に吸収されていったと思われます。それでは「横穴墓」とともに日本列島にやってきたのはどの部族だったのでしょう。

 

(19) ハプログループG   Wikipedia(何故か ハプログループGだけは日本列島が見られません、ハプログループGは高密度なのですが不思議です)(参照写真7)

 

答えは明白です。「海の民」を構成した部族です。この中で南エトルリア南イタリアシチリア島にいた部族は日本と同じような岩窟墓(岩に彫られた横穴墓)を築いていました。

それともう一つハプログループDについて気付いたことがあります。写真(20)を見てみると、間違いなくコーカサス地方から東アジアに広がっています。つまりこのハプログループDの広がりは、出アフリカを果たした頃のハプログループDではないという事です。太古の痕跡は強い分布を示すチベットを除いて消えているようです。今見ているハプログループDは、出アフリカしてそのまま長い間トランスコーカサスに溜まっていたハプログループDのようです。Yamuna cultuerの部族に追われ世界に染み出しています。そして東アジアに今なお痕跡を残したようです。中国に残る石窟寺院や石窟仏像の文化はハプログループDが持ち込んだものだと思います。ただトランスコーカサスの東側にいた部族は岩窟墓(岩に彫られた横穴墓)を残していません。日本列島への影響も限定的であったと思われます。

写真(21)ハプログループOと写真(7)を比べてください。日本人のハプログループOはOtherに分類されるくらい少なく、弥生人に至ってはほとんど見られません。「弥生人は稲作を持って中国大陸からやって来た」は全く合理性を欠く仮説です。成り立ちません。日本遺伝学の権威の方が、弥生人のハプログループからハプログループGを消し去ろうとも、ハプログループOが弥生人に全くないのです。弥生人は中国南部を含め中国大陸からは来てはいません。(渡来経由地としての文化は考えられます)

 

(20)ハプログループD   Wikipedia

 


そして当然西に逃げた「Maykop culture」の部族にもハプログループD はいました。

チュニジアに分布するハプログループD は「海の民」の部族にD>Gの部族がいたことを物語っています。Terramarre cultuer(参照)、北エトルリアサルデーニャ島の部族はG>Dですので弥生人として先行してやってきたようです。墓制が違います。インドヨーロッパ語族南下のタイムラグがあって南エトルリア南イタリアシチリア島のD>Gの部族は後期古墳時代に横穴墓を伴って日本列島にやってきたようです。これらを裏付けることとして横穴墓出土の人骨はハプログループD、Mとなっています。(日本 横穴墓 人骨 DNAで検索)

ハプログループMの縄文人と融合していったことを物語っています。

 

(21)ハプログループO  Wikipedia

 

弥生人にハプログループOはありません。

 

(7)2019 TERUMO SCIENCE FOUNDATION

 

(6)Terramare cultureの環濠集落 wikipedia

 

この環濠集落と稲作、高床式や神社様式の木造建築物、方形周溝墓、円墳、銅採掘と冶金技術、を持って弥生人は渡来しました。

 次回は弥生人や横穴墓の部族達がもたらした個別のものについて調べ、仮説を補強していきます。形而下の石です。ニワトリや柿、鬼瓦などです。

追加

東京大学大学院 理科系研究科理学部のレポートでも、弥生時代の人の流入は近畿、四国で多いことが分かります。弥生人の上陸地点を示しています。

 

日経サイエンスの記事(渡来人、四国に多かった?ゲノムが明かす日本人ルーツ)でも、この地区に渡来人のDNAが多いことが報じられています。横穴墓の部族は縄文人と混血したのに対して、弥生人は環濠集落を築いたこと以来、縄文人とは混血しなかったようです。驚くことにこれは現代人のゲノム分析です。以前に書いたように、家柄の言葉はまだ生きているのです。

 

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