形而下の文化史

表象文化史・ジュエリー文化史・装飾文化史

 

特別編 日本のゴルゴン  唐古・鍵遺跡/清水風遺跡 (4-3)

 

イシュタルの楼閣(鳥葬の塔)

 

数日前、写真(42)京都市埋没文化財研究所 中谷正和氏のメモを眺めていました。やっぱりメモの(11)はテラスが広くて特徴あるなーってよく見た瞬間三羽の鳥が見えました。図録を確認するとやっぱり見落としていました。写真が小さいので拡大するとはっきりと三羽の鳥が浮かび上がりました。

やっぱり壺絵は実在の建築物を正確に描いていたようです。中心部分が極端に細くテラスが広いのです。それはテラスが鳥葬の場所だからです。建物自体の表象を確かめれば、「雨」、「女神」、「生命の誕生」つまり、「生と死を司る雨の女神・イシュタル」の表象に出来ています。土台柱部分や屋根の形は建築的ではなく、表象的に無理な形にしたと考えられます

また東京大学総合博物館の資料「エトルリアネクロポリス、墓、葬祭絵画 シュテファン・シュタイングレーバー」そして「奈良県橿原考古学研究所付属博物館 大和の遺跡/弥生時代」は清水風遺跡に見られる埋葬方法に多くの示唆を与えてくれています。

 

(40)壺絵・テラスに鳥のいる楼閣;唐古・鍵考古学ミュージアム図録Vol.1

 

(41)壺絵 鳥の止まる楼閣 清水風遺跡;神社建築文化財の探訪<TIAS>ブログ掲載

           京都市埋没文化財研究所 中谷正和氏メモ

 

 

(42)清水風遺跡・鳥の止まる楼閣;神社建築文化財の探訪<TIAS>ブログ掲載

           京都市埋没文化財研究所 中谷正和氏メモ

 

1.2.唐古・鍵遺跡、12.奈良芝遺跡は「お産小屋」ではないでしょうか。普通の掘立て小屋に「生命誕生の表象・渦巻」の実が付いています。

 

(43)和久ノート イシュタルの塔表象

 

奈良県橿原考古学研究所付属博物館」の資料によれば「墓域は弥生時代中期初頭の方形周溝墓と弥生時代後期末の方形周溝墓の2時期あり、集落の営まれた時期と異なっている。」とあります。つまり墓制の変化が起こった可能性があるのです。

東京大学総合博物館の資料によれば「エトルリア人は土葬も火葬も行ったが、どちらかの埋葬習慣が地域や時代によって際立って優勢になることがあった。」とあります。

そうなんです、歴史の初めにおいてアフリカやコーカサスの部族は親族単位の数部族がグループを作り、またそのグループが大きなグループを作るといった様に、水平的な社会構造を持っていました。(参照)(冶金技術を持ち富を蓄えた部族は、首長的なグループを作ったようです。)

そのため埋葬習慣の違う小グループの集まった大グループが生まれます。この場合二つの埋葬習慣の様子がみられます。一つは清水風遺跡に見られる埋葬習慣の交代、もう一つは方形周溝墓の溝に壺に入れた遺骨を置く埋葬習慣の共存型です。

埋葬習慣の交代の場合は力を持ったグループの埋葬習慣を取り入れたのか、交代制なのか分かりませんが、統一して変化したようです。方形周溝墓の時期は集落の営みはなく、集落が現れると方形周溝墓は作られません。

集落で行っていたのが鳥葬や火葬であったと考えます。何故なら壺絵を持つ土器に大小があるからです。鳥葬の骨は大きく、火葬は小さくなります。いずれにしても骨にすることに意味があります。私は「鳥女神や鳥の止まった壺絵・イシュタルの表象壺絵・イシュタルの舟の壺絵,平衡の表象壷絵」の土器は骨壺だと考えています。冥界の女神の表象と伴に葬られることは世界的に見られます。

ではその遺骨はどこへ行ったのでしょうか?

ここでも東京大学総合博物館の資料が参考になります。

エトルリアでは「地面に掘られた井戸型、もしくは二重横穴型」に骨壺に入れて収めたそうです。つまり清水風遺跡のどこかにまとまって埋められているはずです。壺絵土器の正体は遺骨の発見とともに明かされるはずです。

 

(44)翼を広げた鳥女神の骨壷(フクロウ)上からハンガリー、レムノス、トロイ

  BC3,000頃  GODDESS  Marija Gimbutas T&H

 

これらの骨壺の表象は、清水風遺跡の「翼を広げた鳥女神」の表象と同じです。清水風遺跡の壺絵の壺が骨壺であることを証明します。

ここでもまた立体表現とコーカサス部族の平面表象表現の違いが見られます。概念は同じです。冥界の女神・イシュタルのもとに埋葬されます。

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