エジプトにおけるイシュタルの舟(死者を冥界に送る舟)変遷
ナカダ文化(BC4,000~BC2,920)とは
イシュタルの舟が彩文土器に描かれ始めたのがナカダⅡ期でした。それまでのアフリカにはない変化がエジプトに起こり始めたのがナカダ文化期です。この文化期に現れたイシュタルの舟の表象が、日本のイシュタルの舟には現れています。この繋がりを探るうえで、エジプトにおけるイシュタルの舟の変遷は知っておくべきことだと考えます。
大きなヒントがあります。
「ナカダ」という言葉は古代エジプト語で「黄金」を意味します。(ピラミッド以前の古代エジプト文明;大城道則)
そしてBC3,600年頃、ナカダに周壁の街が現れます。バルカン半島の時と同じです。バルカン半島の黄金の文化「Varna culture」(参照)はBC4,700年頃の出来事でした。
金の採掘と冶金技術を開発した「Shulaveri-Shomu culture」(参照)からの部族移動です。他の農業などの部族に比べ冶金技術を持つ部族は早くから移動し始めています。
「ナカダ」にやってきた部族は「黄金」で富を築きながらコーカサス概念の文化を作り始めました。彩文土器にコーカサスの概念が現れ始めます。
イシュタルの舟を見てみましょう。写真(85)、(86)です。
舟の下部は「雨の表象」になっており、観念的な舟であることが分かります。上部は「葦船」です。葦で作った船室が二つ見えています。写真(85)、(86)伴に旗頭には「雨による平衡」の表象です。後ろの船室には写真(85)は「▲ー女神」に「二本の平衡リボン」で「平衡の女神」を表しています。写真(86)は「雨か雨雲」、「雨粒」、「平衡リボン」のポールが立っています。さらに写真(86)には、女神が憑依して豊穣をもたらす「鹿」がいます。すべてコーカサスの概念で「雨による平衡の女神」を表しています。
問題が一つあります。写真(86)、(87)の牡牛の角ポーズの女神です。コーカサス地方でこれまで見たことのない女神だったので、判断に困りました。像全体の形は非常にアフリカ的なのです。しかし、よく検討してみるとイシュタルのようです。
理由その一は肩と腕の組み方が、これまで地中海地域で見てきたアフリカ部族の女神と非常に似ている写真(88)のナカダⅠ期(BC4,000~BC3,500年頃)の女神から、ナカダⅡ期になって角ポーズの女神に変化したことです。
理由その二は後にタッシリ・ナジュール(サハラ砂漠)の岩絵に現れた「人を殺している雨の女神」が角を持っていることです。
理由その三はチャタル・フュユクの「雨の表象の翼を持つハゲワシ」が描かれた祠堂(参照)には、牛の角が祭られていたこと。
理由そ四、メソポタミアの神々は頭の角の数で神性の上下が表されていたこと。
そして最後に後のインダス文明で「コブウシ土偶」が副葬品となっていることが挙げられます。
確かに全ての出発点としてコーカサス地方で牛の角は神聖視され、イシュタルと結びついたと考えられます。コーカサス地方の牛が水牛だとしたら、行く先々で飼育されていた種類の牛と習合したと考えられます。写真(89)の「コブウシ」は「▲ー女神」と「雨による平衡」の表象に囲まれています。間違いなく「雨による平衡の女神」の表象となっています。気になることは、北イタリアで「雨による平衡の女神」が憑依した「鹿」(参照)は背中に女神の表象(鳥でした)を持つか、人形になっていたことです。「コブウシ」の瘤を「雨による平衡の女神」の憑依と考えたと思われます。だとすると、両文化の出発点であるコーカサス地方に同じ概念があったことになります。
写真(86)の女神もナカダ二期に現れたイシュタルだとすれば、この期のイシュタルの舟は、コーカサスの概念がエジプトの彩文土器によって具現化されたものと言えます。
次の変化を見てみましょう。写真(91)の様子は違うようです。
(85)エジプト・ナカダⅡ期(BC3,500~3,300年頃)の彩文土器;参考館セレクション
(86)エジプト・ナカダⅡ期(BC3,500~3,300年頃)の彩文土器;木崎洋技術士事務
(87)天の王女 Wikipedia
(88)女神像 エジプト・ナカダⅠ期(BC4,000~BC3,500年頃);ピラミッド以前の古代エジプト文明;大城道則
(89)エジプト・ナカダⅡ期(BC3,500~3,300年頃)の彩文土器;木崎洋技術士事務
(90/1)タッシリ・ナジュール(サハラ砂漠)の岩絵
サハラ、砂漠の画廊・野町一嘉写真集
(90/2)タッシリ・ナジュール(サハラ砂漠)の岩絵複製画
女神の心 ハリー・オースティン・イーグルハート
(91)ヒエラコンポリス(ハヤブサの町)第100号墓の色彩絵画;ピラミッド以前の古代エジプト文明 大城道則