形而下の文化史

表象文化史・ジュエリー文化史・装飾文化史

 

表象文化史 「羽子板、扇」が導いたこと

f:id:blogwakujewelry:20150704172237j:plain

羽子板、朝顔、ほうずき、熊手、花菖蒲

 

「羽子板、扇」の表象は縄文の八ヶ岳に結びつきます。

そのことは確かなのですが、同じ表象の、「形而下の石」をスケッチしてるうちに、「アレ?」となりました。上のスケッチを見ればお解りのはずです。後述する花菖蒲は別として、他の四つは神社や寺で市が開かれるのです。「羽子板市」、「朝顔市」、「ほうずき市」、そして「酉の市」です。

それも解ります。多くの民族にとって新石器時代から、大切な表象です。

私が「アレ?」となったのは、これらの市はみな、江戸時代に始まっていたからです。

前前章で「外様大名の加賀藩は御三家に準ずる扱いを受けていた。」と書きました。そういえば、徳川家二代将軍秀忠の隠し子「幸松」は、八ヶ岳の「高遠藩」で育ち、「高遠藩藩主保科正之」になっていたのです。小大名の「高遠藩」が、旗本の下屋敷のある「内藤新宿」に下屋敷を持っていたのもうなずけます。ただ、秀忠はなぜ「高遠藩」に「幸松」を託したのか。日本の島々にやってきた部族や語族は、現在に至るまでそのルーツを大切にしています。当然のことです。その闘争と融和が日本を作っているのですから、堂々と覇を誇るべきでしょう。もちろんかなり混じり合っていますが、「表象文化史」の連続性は家紋だけでなく、すべての「形而下の石」にそのルーツを映します。

ここは「市」について精査するべきでしょう。

諸説ありますが、すべて武士の文化から始まっているので、「徳川家」が連続性のキーワードになるはずです。

「朝顔市」

伝通院;朝顔は江戸時代から武士の間で栽培が始まり、「朝顔市」は伝通院に始まったようです。伝通院といえば、徳川家康の生母「お大」が葬られた、徳川将軍家の菩提寺です。「朝顔」を漢字にしているのには大きな意味があります。古来、万葉集にうたわれた「朝顔」は「桔梗」や「槿」で、現在の「朝顔」ではなかったのです。つまり、「朝顔」とは「花の形」が表象するものの名前だった訳です。「桔梗」「槿」「朝顔」の花を見れば、すぐに解ります。すべての「市」が出揃うと、もっとはっきりした「形」になりますが、徳川家康が大切にした「形」なのです。gorgonzora(ゴルゴンゾーラ)の「zora」はスロベニア語に残り、「夜明け」を意味します。

 gorgonzoraは「夜明けのゴルゴン」なので、「朝顔」と同じ「形而下の石」を示します。

 「ほうずき市」

 愛宕神社;徳川家康が信仰した「勝軍地蔵菩薩」を祀る神社で、徳川家康の江戸入府時に建てられています。当初は武士のみ参拝が許されていたようです。 「ほうずき」は漢字で「鬼灯」と書きます。ここで言う「鬼」とは何を指しているのか、「羽子板」と併せて見て下さい。同じ「鬼」です。私は、中国でその人たちを「鬼」と呼んだ影響で、「鬼退治」の言葉が、日本に生まれた気がします。「ほうずき」は私が子供の頃、イラストのようにして遊びました。羽子板の羽根と同じ形状の「形而下の石」です。

「羽子板市」

浅草寺;徳川家康の江戸入府より、将軍家の「祈願所」となる。武家の男子を中心に賑わった浅草寺の境内には「歳の市」がたち,「羽子板」が売られていた。江戸中期以後は徳川家が離れ、庶民の市として賑わい続けます。そして、「歌舞伎役者の押絵」などの羽子板を売る羽子板市がたちます。

興味があるのは、武家の「羽子板」です。江戸時代初期、将軍家の「祈願所」で本来の意味を持って売られていたのは、室町時代から続く表象としての「羽子板」だったはずなのです。

室町時代、中国から入った「羽子板」は中国漢字そのままに「胡鬼板」と呼ばれていました。色々な解釈がなされていますが、素直に文字のままに解釈すべきだと思います。「胡」は中国から見て西国ですから、「西国の鬼の板」となります。 「ほうずき」の漢字名「鬼灯」と同じ「鬼」でしょう。将軍家の「祈願所」であった浅草寺では、「ほうずき」も早くから売られていたと想像がつきます。「胡鬼板」については、物として存在します。しかし、絵空事と思われたくないので、もう少し、「形而下の石」を積み上げ、理解しやすいタイミングで私見を述べます。

今は「徳川家に縁のある、西国の鬼の板」と理解してください。

f:id:blogwakujewelry:20150708194606p:plain

東京のれん会;江戸の歳時記;12月羽子板市

「吉徳これくしょん所蔵」

 こんなものが残っているとは!!

羽子板の意味を知る、大変貴重な、貴重なコレクションです。

 「胡鬼板」は形で残っていますが、その文明も今は滅ぼされているので、意味の説明は推論になります。

その「胡鬼板」が日本に来て、本来の意味で存在しているのです。「胡鬼板」の意味も、実は同じなのです。ヒントは、羽子板は将軍家の「祈願所」である浅草寺の、正月用品を売る「歳の市」で武士を中心に売られたことです。「三つ葉葵」のご紋の入った羽子板が販売されるはずがありません。「鎮護国家」「五穀豊穣」を願う「左義長」図案の羽子板は「御祈願」以外に考えられません。「歳の市」で売られた羽子板は「御祈願」のためであり、それが後に、御祝儀や縁起物になっていったと考えられます。

羽子板が「何故、この形なのか?」は,逆に「胡鬼板」の文明から知ることが出来るでしょう。

「 羽子板に扇」の表象は、「扇一族の繁栄」?

 

 

 

© 2019 JOJI WAKU Blog. All rights reserved.