形而下の文化史

表象文化史・ジュエリー文化史・装飾文化史

 

Cardium pottery culture(PreーOzieri culture・Sardinia)

Starcevo-Koros-Cris culture(BC6,200~BC4,500年頃)

 

 

(6)Starcevo-Koros-Cris culture ;Download Scientific Diagram

 

 

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(1)「マグダレニアン( Magdale'nienne) 文化」の領域Wikipedia

 

 

(7)Cardium pottery culture、Starcevo-Koros-Cris culture;Dounload Scientic Diagram

 

 

(8)和久ノート・BC7,000~BC5,600年頃

 

和久ノート(1)は写真(1)の「上部マグダレニアン(Superieur Magdale'nienne) 文化」で南仏の洞窟壁画で生まれた雨の表象を発達させながら東に伝播していきます。

和久ノート(2)は地続きだったアナトリアからバルカン半島へ、土器と初期農耕が伝えられた道です。

和久ノート(3)はヨーロッパ大陸の惨事を受けて、宇宙論的に思考された「ズールーの概念」を発達させて北上し始めた北アフリカの部族です。

 

「上部マグダレニアン(Superieur Magdale'nienne) 文化」はBC7,000年頃にはドナウ河を下り、バルカン半島北西領域に達していたものと思われます。土器の文化もこの地に及び始めていました。イタリア半島に生き残り海洋民族となっていた北アフリカの部族はこの地(ギザギザ線B)で「土器」と「雨による平衡の女神」の概念に出会い、土器に身近にある貝殻「Corculum cardissa」を用いて写真(11)の様な押し圧文様をつけ始めます。二枚貝の表面部分を押し付ければ平行線の「雨」、エッジ部分を押し付ければ「雲」の表象になります。最初の製作拠点はイタリア半島東岸のやや南部、小さく飛び出した半島にある「Coppa Nevigata」でした。これを基本とした「Cardium pottery」は地中海北岸の海洋民族に拡がっていきます。これが「Cardium pottery culture(BC6,400~BC5,500年頃)」です。

程なく「Cardium pottery culture」は写真(7)で示されたように二つの文化圏に分かれていきます。その原因は「Cardium pottery culture(BC6,400~BC5,500年頃)」の後すぐに始まった、セルビア(Serbia)、ドナウ河北岸の「Starcevo」を中心にした「Starcevo culture(BC6,200~BC4,500年頃)」の土器絵表象(準備中)に見ることができます。この土器には「上部マグダレニアン(Superieur Magdale'nienne) 文化」の表象に加えて、「大きな渦巻」が見られます。北アフリカからズールーの概念をもって進出してきた部族の特徴です。

イタリア半島北西部でも変化が起こっていました。南仏に続く「Liguria」の海岸線では南仏の「上部マグダレニアン(Superieur Magdale'nienne) 文化」の表象と「Cardium pottery culture(BC6,400~BC5,500年頃)」が出会っていました。「SardiniaのOzieri cultuer」以前にもこの影響を受けた表象が見られます。写真(2)の「雨による平衡の女神」はその代表的なものです。(後ほど説明)

それとこの「Cardium pottery culture(BC6,400~BC5,500年頃)」のポルトガルに続く西領域では、「Corculum cardissa」の貝殻に変わって同じ二枚貝の「Pecten mximus(ヨーロッパホタテ)」が表象化され始めます。「雨」の表象に加えて二つの▽・女神の表象(耳)を持つためです。写真(12)の「雨と太陽による平衡の女神」はその影響が見られます。この表象はズールーの概念を持つ部族にも広がり、黒海・北西岸にも現れます。

」同じ「上部マグダレニアン(Superieur Magdale'nienne) 文化」の表象と言っても、南仏とドナウ河下流域では、この距離の伝播に5000年くらいの時間がかかっているのです。

発展した表象は、具象的な表現が始まっています。(写真9,10)

そして間もなく(BC5,600年頃)黒海大洪水が起こります。

 

今回南仏の洞窟壁画を精査して新たに解ったことがあります。ズールーの概念は南仏の洞窟壁画の表象が根幹にあります。洞窟壁画の頃には南仏と北アフリカは同じ様な文化圏だったと考えます。その後「雨による平衡の女神の表象」と「宇宙論的ズールーの概念」に何千年をかけて発展したと思います。

ズールーの概念の根幹にある表象が弥生時代古墳時代、そしてエジプトに現れた「槍のような櫂」に宿っていました。マジシ・クネーネ氏は「アフリカ創世の神話」として、完成したズールーの概念を書き記していたようです。

もう一度「槍のような櫂」は南仏の洞窟壁画、すなわち「ズールーの概念の根幹」から見ていく必要があります。

 

 

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(9)豆粒文、ギザギザ・垂下・貼付隆線文、平衡の王女・貼付隆線文土器

 ko"ro"s culture,Hungary;BC6,200~BC5,600年頃

 The Language of GODDESS

 

 

 

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(10) Hungary  Face-potBC6,200~BC5,600年頃;The origins of the First Farmers angelfire.com

 

 

(11)Cardium potter ;wikipedia

 

 

(2)PreーOzieri culture BC4,000~BC3,800 Sardinia  The Language of GODDESS  Marija Gimbutas

 

(12)雨による平衡の女神(ズールーの概念では王女);1,2,Karanovo            culture,Bulgaria,c.BC5,800年頃、 3,Ozieri culture,Sardinia,c.BC4,000~BC3,800. 

         The Language of GODDESS  Marija Gimbutas

 

写真(12)1,2,Karanovo cultureの「火と雨の平衡ポーズ女神(後世、仏教がお釈迦様ポーズにする)」は、写真(9)の上部マグダレニアン(Superieur Magdale'nienne) 文化」の表象 から発展したko"ro"s cultureの影響です。ko"ro"s cultureの手足V(平衡)の方が基本的な概念を示しています。

 

 

 

 

 

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